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グランプリ
「かわら版」って、いいよ!
髙橋 千秋 様 / 新潟県新潟市
390戸ある私の住むマンションでは、所有者同士の交流はほとんどない。年に一回開催される定例総会の出席者は、同じような顔ぶれで、総会で、理事会の提案が順調に通過するのは、難しい状態が続いていた。
6年前に大規模修繕工事のための臨時総会が開催された。修繕工事のためのプロジェクト・チームから詳細な説明があった。ある出席者から、業者の選択、大規模修繕の必要性など、提示を根本から覆すような質問があり、どんなに説明をしても、質問者は納得せず、会場はシーンと静まり返り、大規模修繕工事は延期になるのかな、というあきらめのムードが漂い始めた。
そんな時、年配の男性が「今日は大規模修繕工事をするための会合なのに、話がとんでもない方向に行っている。色々質問をしているが、知りたければ、事前の段階で意見を言えばよい。それをせずに、この場で屁理屈のようなことを言っている。工事がどのように進められるのか、を知りたいから出席したのに、話が変な方向に進んでいる。もう、黙らっしゃい。」と発言した。
出席者から、割れんばかりの拍手が起こり、決着した。
この総会で私はある事に気づいた。一度に出す分厚い資料で知らせるのではなく、もっと簡単な形でその都度知らせていたら、よかったのではないかと。
私は理事会の広報部会に進んで所属し、広報誌「かわら版」の発行を引き受けた。「かわら版」は年間2回から6回程度 A4の両面刷りで発行されていたが、私は「かわら版」を毎月理事会がもたれた次週に発行することにした。
編集は編集者に任されているため、理事会の議題に関することは勿論、マンション内での出来事を理事会の承認を得て、知らせている。
2億円をかけて、自走式駐車場を作るという試案が出され、理事会では議論が白熱した。賛否を問うアンケート調査が行われ、自由な意見を書いてもらった。「駐車場を作る案」には反対が多数であったが、調査に協力しない居住者も多数いた。
アンケート結果は「かわら版」で一人ひとりの意見を氏名ではなく番号にして、4頁裏表で知らせた。提案者は住民の真意を知りたいので住民説明会をして、理解を得たいと主張した。そのための説明会が2回行われた。
参加者は「かわら版」を冊子にして持ってきた。発言者は、「自分は「かわら版」の何番の人の考えに賛成である。」「自分は自走式駐車場は便利だし、ほしいと思っていたが、今考えは変わった。反対である」笑いが起こった。
➄番の人の考えに賛成だとか、⑦番の人の考えには反対である、という感想がお互いに語られ和やかに話し合いは進み、提案者も納得し、自走式駐車場は作らないことになった。
賛成、反対という対立がない話し合いで、会場には笑いが起きる場面もしばしばあった。参加しなかった人も、紙面を通して参加した。
水道管の洗浄が行われた時に、管の経年劣化が発見された。理事会では居室の中にある水道管なので、管の交換は所有者の負担で行うことに決めた。
理事会の決定を「かわら版」に載せたところ、所有者から、管の交換は全体で一斉にやるべきだというお声を頂き、理事会で再度話し合い、「個人か」「全体で一斉か」を「かわら版」でアンケートを取り、その結果,頂いた全文を知らせた。
水道管の取り換えは全体で一斉にやる方向に、総会ですんなりと決定した。
築後23年を経過しているマンションでは、あちこちに経年劣化とみられる現象がみられ、数千万円かかると思われる修復工事もたくさんある。その都度、工事着工についてのご意見などは、すべての所有者に「かわら版」を通して聞いている。390の所有者の意見をまとめ上げることは、以前は大変であったが、この「かわら版」アンケートを使い始めてからは、総会でのまとまりは非常に良くなり、なごやかになっている。
「かわら版」に「共同住宅でのマナー」について詳しく書いた。例えば、挨拶の重要性とか、ゴミの出し方、共用廊下のことなど。以前は管理員が共用廊下に置かれた物や、ゴミを注意すると「あなたに言われる筋合いがない」と開き直って、怒鳴られたりすることがあったというが、今ではない。
「住人同士の挨拶を交わさない人はほとんどいない。」「ゴミ出しの違反者はほぼゼロ」の状態となった。
突然の停電の時には、その原因を、大雪の時には除雪の対応を知らせた。カラスや野良猫に餌をやる人がおり、野良猫が玉砂利上に糞をし、悪臭を放つ問題があった。「管理費等を払わない所有者」「排水管の一斉清掃や消防点検を受けない居住者」など、情報はたくさんある。
「かわら版」に関しての調査をすると、居住者のほとんどの人が読んでいる。毎月一度「かわら版」が配布されると、玄関先で「かわら版」の記事について話し合っている人たちの姿を見ることもある。家族で集り、記事についての話し合いを持つ家庭がある。
区分所有者で賃貸に出している人からも「かわら版」を送付してほしいという声があり、今では毎月500部を発行している。総会に出席しない人でも、「かわら版」で意見を述べたら、参加しているような気持になり、よかったというご意見を頂いた。
総会では、理事にねぎらいの言葉があり、和やかな雰囲気である。「かわら版」が役立っているという。「かわら版」って、いいよ!
【講評】
それを実感した筆者が取り組んだのが、昨今のIT化社会では古風にも感じられる、広報誌『かわら版』の活用。全居住者に配られる『かわら版』が、マンション内の風通しをよくするきっかけに。
多くのマンションで、理事会からの情報発信の手段として議事録や広報誌が作られていますが、使い方を工夫することで、マンションのコミュニティを良好に、また、合意形成をスムーズにする力を発揮するということを改めて感じさせられました。
この取り組みは、多くのマンションにおいて取り入れることができる要素が含まれており、規模の大小を問わず再現性が高い、ということで高評価となりました。
準グランプリ
コミュニティこそがライフライン
大西 賞典 様 / 兵庫県加古川市
「防災をひと言で言うと何ですか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか?
私は『自分の大切な人を守ること』だと自信を持って言います。
1995年1月17日午前5時46分52秒。私たちは今までに経験したことのない強く大きな揺れに襲われました。
阪神・淡路大震災です。
震源地から25km。私の自宅は、家財道具はメチャクチャになりましたが、幸い家族は全員無事でした。マンションは、地震による人的被害は無かったものの、階段接合部破断で階段の使用不可や壁面にX状の亀裂が無数に入るなど3000万円程度の被害が発生しました。
さらに、マンション住民の多くは阪神間に通勤しており、震災直後は、在来線が地震の影響で不通、普段は神戸まで40分程度の通勤時間が、震災後には3時間以上の通勤時間を要することになりました。余震の続く中、家族をマンションに残したまま単身で職場の寮や親戚先などから通勤するといった、多くの人が強い不安を感じながら日々過ごしました。
そのような状況下、マンション住民の間では「マンションを守ろう」「何かを始めなければ」という意識が高まってきました。被災後の救援や復旧活動におけるボランティアの高まりを受けた兵庫県では、県下に自主防災組織の結成を呼びかけました。加古川グリーンシティ管理組合もこの呼びかけに応え、平成10年6月、既存の自衛消防隊と防犯防災委員会を融合させた「加古川グリーンシティ防災会」を発足させたのです。
防災会発足当初は、震災後にクローズアップされた「マンションの災害対策」について取り組みました。
マンションはプライバシーが守られる反面、ご近所付き合いが薄いのが最大の問題。この問題をいかに解決し、どうすれば仲間が増え、みんなが防災活動に取り組むことができるようになるのかを思案したのです。
そこで考えだしたのが、楽しくなければ防災の輪は広がらない、『楽しく防災活動をやろう』というスローガンでした。このスローガンを掲げ、災害などの緊急時に提供可能な能力を事前に登録し、災害発生後にいち早く適切な人材からアドバイスが頂ける特技登録制度「町内チャンピオンマップ」や、災害後に大きな不安を抱える高齢の人や障がいのある人の登録「ひとこえ掛けて」など、災害時だけではなく、普段の生活の中に防災をうまく組み込む「生活防災」というアイデアを仕掛け、「コミュニティづくり」に邁進しました。
ところが、勢いづいた防災活動も年月が過ぎるほどに、「もう地震なんて来ないんじゃないのか?」「なぜ私が近所の人の命や何処の誰か判らない人の命まで守るような活動をしなければならないのだ!」と思う人が増えてきたのです。
そのような中で、ある小学生から次のような質問を受けました。
『防災をひと言でいうとなんですか?』
想像すらしていなかった質問でした。私たちにとって防災とは、防災でしかなかったからです。この小学生の質問が、後に大きな宝物となりました。
私たちは今まで『防災』というものをしっかりと定義していなかったのではないかと思い始めたのです。「命を守ろう」「まちを守ろう」という漠然とした活動では、モチベーションが続かなくて当たり前だったのです。
私たちの防災活動は、マンションのハード的災害対策だけはなく、「防災活動」とは本来どうあるべきか、そもそも「防災」とは何か、「何に対して」防災をするのか、私たちは「何を守る」ために防災活動を行うのかなど、「防災」が持つ本来の意味を、原点に戻って追求しました。しかし、中々答えを見出すことができませんでした。
そんな時、家内から「あなたは何のために防災活動をしているの?」と聞かれました。
何のために防災活動をしているのか。答えはすぐに浮かびました。「私の大切な家族の命を守るために防災活動をしている。家族の命を守りぬくために私も死なない!」
私自身「他人の命を守る、マンションを守る」なんて、到底できもしないことをやろうとしていたのではないか、単純に『正義の味方づら』をしていただけだったのではないかと気づいたのです。
「定義のない防災活動では、人は迷うだけ。そうだ!『防災とは自分の大切な人を守ること』なんだ。自分の大切な人を守る為に、まちづくりをみんなで楽しくやろう」と考えたのです。他の人を守ることが廻り廻って「自分の大切な人を守ることに繋がる」と。これまでの「大切な人」というような漠然とした守る対象ではなく、「自分の大切な人」と守る対象を定義することが重要だと気づき、住民に「コミュニティの強化」を啓発したのです。
あの小学生の質問に、迷わず答えることができる私には「防災とは自分の大切な人を守ること」が一番であって二番なんて無い、誰に何を言われようとも心が揺らぐことはありません。ですが最初は、専門家の方々から「防災とは自分の大切な人を守ること?そんなあまっちょろいこと」と笑い飛ばされもしました。
2011年3月11日。東日本大震災。
テレビで専門家の先生方が、声を揃えて仰っているのを見て涙が溢れました。「防災とは自分の大切な人を守ること。あなたの大切な人を守る防災活動をしましょう」と。防災会では『コミュニティこそがライフライン』だと思っています。あの震災から23年『楽しく防災活動をやろう』を今も変わらず実行しています。
近年、防災会では園芸部やゴルフ部も発足し、笑顔あふれる防災活動が広がりを見せています。私たちのマンションで「防災訓練やっていますか?」と尋ねると、多くの住民は次のように答えるでしょう。
「毎日やっていますよ」それは『あいさつ』です。私たちのマンションでは、毎日あいさつが飛び交っています。今日のこのあいさつが、自分や、自分の大切な人を守ることにつながるかもしれないからです。あいさつが地域の人を守り、更には自分の家族をも守る。こんな素晴らしいワクワクする究極の防災活動『あいさつ』が、私たちのマンションには文化として根付いたのです。
防災は、災害を防ぐためだけに行うものではありません。あなたが今何気なく行ったことが、あなたの大切な人の命を守ることになるのです。
【講評】
「防災」というキーワード。
頻繁に耳にするし、大事なテーマだと誰もが思っているはず。
しかし、「防災とは何か?」「何のために防災活動をするのか?」そんな根本的な問いに対してどう答えるか、迷うこともあるかもしれない。
阪神・淡路大震災で被災したこのマンションでも、経年とともに徐々に防災意識が薄れていく。そんな時、ある小学生の問いをきっかけに、『防災とは自分の大切な人を守ること』なのだと気づかされる。
『楽しい防災活動をやろう!』というスローガンは、震災から23年経った今でも取り組みが続けられている秘訣であり、そして何より、防災とは特別なことではなくて、毎日の『あいさつ』からできることなのだと、防災の原点を改めて考えさせられるエピソードとして高い評価につながりました。
特別賞
エレベーターキッド
加藤 光 様 / 神奈川県横浜市
大学生になってからの3年間でのお話です。履修の関係でたまたま火曜日と木曜日だけ16時前に帰宅していたのが全てのきっかけでした。その時間は小学生の下校時刻と重なるようで、よく小学2年生の女の子とエレベーターが一緒になりました。エレベーターを待っている時に私は、「こんにちは」 と声をかけました。するとその子はおどおどしてから俯いてしまいました。考えてみれば、10歳も年上の人にはなかなか挨拶できないかもしれません。さらに最近は特に、知らない人と関わらないようにと言われているのかもしれません。
「怖がらせてしまったかな」と思い、無関心を装うことにしました。エレベーターが止まり、開きました。乗り込むと、その子は3階を押してボタンの前に立ったため、6階の私はその子が降りてからボタンを押そうと決めました。するとその時。 「・・・なんかいですか」
直接顔は見えませんでしたが、おそらくエレベーターに乗る前から、言おう言おうと心に決めていたのだと思います。そんな勇気を出してくれたことがとても嬉しく、「6階です、どうもありがとうございます!」と伝えました。
ところがそこで問題が。その子の身長では、6階のボタンに届かなかったのです。一生懸命6階を押してくれようとするので見守っている間に3階に到着し、ドアが開き、ドアが閉まり、そして止まってしまいました。
「ごめんね、さっき間違えて言っちゃったんだ、本当は4階なんだ」4階なら押せると言いたげにボタンを押してくれ、一緒に4階で降りました。「さよなら」そう言うとその子は3階まで階段で降りて行きました。
その日から私の4階までエレベーター、残り2階分は階段を使う生活が始まりました。気がつくと毎回お喋りをする仲になりました。その子はふみかちゃんと言うそうです。お友達と一緒の時はそのお友達がボタンを押してくれるようになり、「4階です!」と案内してくれるようになりました。まるで週に2日だけの特別なエレベーターガールズの誕生です!
半年が過ぎた頃から、小学生の間でエレベーターガールごっこが流行り出しました。5人組で遊んでいる日には、誰も乗れないなんてこともありました。
ある日、とうとう管理組合で問題として取り上げられる事態にまでなりました。題して「エレベーターキッズ問題」です。主な理由としては「エレベーターは遊ぶ場所ではないので危ない」です。芋づる式にエレベーターに対する愚痴大会にまで発展してしまいました。
「待ち時間が長い」「速度が遅い」「暑い」「狭い」・・・。
収集がつかなくなり、結局エレベーターで遊ばせない解決策は「見かけたら注意する」に決まりかけました。しかし私はどうしても賛成ができませんでした。なぜならエレベーターキッズ問題の発端はふみかちゃんが勇気を出して私に階数を尋ねてくれたことにあるからです。それを否定したくはありません。
そこで私はこの件の担当に立候補し、幼馴染3人と共に対策チームを組むことで結論を保留してもらうことにしました。私は中学受験をしたので幼馴染とは疎遠になっていましたが流れで巻き込んでしまいました。こうして始まった3人の対策会議において私たちが大切にしたことは次の2点でした。
・小学生に、エレベーターで遊ぶことは危険であると認知してもらうこと
・小学生の親切心を摘むようなことはしないこと
この解決に不可欠なことは、小学生達と仲良くなることだと考え、ふみかちゃんを通じて一度遊ぶ機会を設けました。マンション内の小学生から学生まで声をかけましたが、集まったのはふみかちゃんの友達と私たち3人だけでした。それでも鬼ごっこや一緒にお弁当を食べ、とても楽しめました。
第二回の企画として、小学生による「エレベーターの乗り方」ポスターづくりをしました。例えば、合言葉は「なんかいですか」と「みんなにゆずろう!」になりました。そして管理人さんにお願いし、エレベーターに貼らせてもらいました。
2,3ヶ月に1度のペースで様々な企画を開催しました。「階段に仕掛けようプロジェクト」と題して小学生のアイディアを募り階段が楽しくなり利用したくなるようなデザインやポスターを作成し、「待ち時間を楽しもうキャンペーン」では1階エレベーターの壁に小学生作成の月刊誌を貼り始めました。
いつの間にか参加してくれる小中学生が増え始め、今では高校生が主導で隔月で楽しいイベントを企画してくれるようになりました。そして、エレベーターに対して不満を言っていた人たちも「次の月刊誌楽しみにしてる」とおっしゃってくれるようにまでなりました。 特に嬉しかったことは、小中学生達が私たちに成人を祝う会を企画してくれたことです。このマンションで育って良かったと人生の節目に感じることができました。
当初の「対策チーム」は「小中高大交流会」と名前を変え、すれ違っても挨拶すら交わさなかった同世代が仲間に変わりました。
「あ、ひかるくん!」 ふみかちゃんから声をかけてくれました。エレベーターが止まり、開きました。乗り込むと、「なんかいですか!?」そう言い終わるより先に、6階のボタンを押してくれました。
【講評】
マンションのエレベーターで小学生が遊んでいる・・・
そんな状況が、もし、あなたの住むマンションで問題になったとしたら、どのような対応をとるでしょう?
火曜と木曜の帰宅時間が小学生の下校時刻に重なるようになった大学生。
小学2年生の女の子が、意を決して「なんかいですか?」と尋ねたことがきっかけで週2日の交流が始まりますが、やがて「エレベーターキッズ問題」として管理組合で取り沙汰されることに。
ありがちな対処法に落着くかの展開の中、「子供の親切心の芽を摘んではならない」との思いから、大学生自ら旗振り役となって子供目線で様々な仕掛けをし、子供たちを巻き込みながら問題解決に奔走する中で、大人たちも交えた新たなコミュニティが育まれるエピソードとして評価されました。
若い世代がマンションでの出来事に関心を寄せ、主体的に取組む姿が嬉しくもあり、応援したくもなるエピソードです。
特別賞
「あなた 元気に暮らしてますからね」
永富 いそ子 様 / 兵庫県姫路市
兵庫県を流れる揖保川のほとりで生まれた私は、二十歳の秋に少し上流の村に嫁いだ。夏には川面を蛍が舞い、秋には稲穂の波をアキアカネが群れ飛ぶのどかな土地で、二人の娘にも恵まれて平穏に暮らした。娘達が嫁いだあとは、夫婦二人で旅行したり寄席に行ったり、孫たちの成長を楽しみに暮らしたが、金婚式まであと二年という冬の日、主人は突然旅立ってしまった。
息ができないほど辛い別れだった・・ 半年余りは、どうして過ごしたのか、今でも思い出せない程茫然としていた。
娘や弟妹、友人たちに支えられ、何とか我に返った私を待っていたのは、高齢者一人田舎暮らしの現実だった。車の運転をしない私にとって、買い物や通院など不便極まりなく、タクシーを使ったり知人の好意に甘えたりしたが、気も使うし費用もかかる。その上広い土地の草引きや、田んぼや山林の管理、農道整備や用水路掃除の参加など、夫婦二人では頑張れたことも一人になると重荷になった。
おまけに結婚と同時に建てた我が家のメンテナンスに、思わぬ費用がかさみ、これ以上年を取るとどうなってゆくのかと心細く、眠れぬ日もあった。
そんな時、ふと心をよぎったのが生前の主人の言葉だった。 「自分は、生まれ育ったこの土地で最期を迎えたいと思っているが、もしお前が一人残ったら心配だから、その時は娘の近くに引っ越していいからな」 その言葉に押されて、古希近くになって初めてのマンション暮らしに挑戦してみようと決めた。
場所は、娘の家から遠からず近からずの距離で、先ず交通の便が良いこと、価格、管理維持費、広さと間取り、管理会社、そしてできれば管理人さん駐在・・と、自分の条件に合う物件を探して、主人の三回忌をつとめたあと、姫路市内の今のマンションに引っ越してきた。
まったく初めてのマンション暮らしで、恥ずかしながら管理組合と自治会の違いさえ知らなかった。田舎と違いご近所付き合いもクールで都会的だろうと、少々孤独な生活も覚悟はしていたが、引っ越してみると皆さんホントにあたたかく、心安く話してくださってとても安心した。
特にお向かいの奥さんは、何も知らない私にひとつひとつ丁寧に教えてくださり、この方との出会いは本当に幸せなことであったと思う。 お茶を飲みながらお喋りする「いきいきサロン」・・百歳体操・・歌声コーラス等に連れて行ってもらい、自治会や管理組合の総会にも誘っていただいた。こうして少しずつ様子もわかり、お付き合いの輪がゆっくりと広がってゆくのはとても嬉しい事であった。
JRの駅、バス停、スーパー、病院、銀行、郵便局、コンビニなど生活に必要な所はすべて徒歩圏内で、田舎暮らしだった私には、便利すぎる夢のような生活である。新しいお仲間とお喋りしたり笑ったり、モーニングやランチに出かける日もあり・・・ 娘や孫達が来て、にぎやかに食卓を囲む日もあり・・ 一日中ひとりで、好きな手芸洋裁やDVD鑑賞を楽しむ日もあり・・それらが丁度良いバランスで暮らせていると思っている。
共有分のメンテナンスは修繕積立費で賄ってもらえるから、余分な費用の心配はないし、台風がきても大雨が降っても、雨戸を閉めて回ったり庭の物を片ずける必要もない。ゴミ当番や草引きもなく、何より玄関にはいつも管理人さんの笑顔があり安心できる。古い建物なので騒音問題や、個性のある方とのお付き合い等、気を使う事もなくはないが、それは何処に住んでも同じこと、謙虚な気持ちと誠実な心で接してゆくだけと思っている。
よくテレビや雑誌で、定年退職後に田舎暮らしを楽しむ方たちの特集があるが、人はそれぞれ幸せの形が違うもの、私は歳を重ねた今こそ、この便利なマンション暮らしが有難く、日々感謝である。今では自治会のバス旅行や運動会にも参加しているし、順番で回ってきた管理組合の理事も、役には立っていないだろうが仲間に入れていただいている。そして、目前に迫った大規模修繕にむけて、若い理事長を中心に計画を進めている最中である。思い出の詰まった我が家や、先祖から受け継いだ土地を処分し、親しい隣人達と別れての引っ越し。諦めたこと、手放した物もいっぱいあったけれど、それ以上に得たものも大きく、後悔した事は一度もない。主人もきっと安心して見守ってくれているだろう。
ここまで原稿を書き終えたところに、隣の奥さんが来られた。 「ねえ!見て!見て!綺麗な虹よ!一人で見るのは勿体ないほど綺麗だから一緒にみましょう」 ベランダに出ると東の空に、大きな虹がはっきりとかかっていた。何かいいことがあるような美しい虹の橋だった。
虹を見ながら私は心の中でつぶやいた・・ 「あなた、元気で楽しく暮らしてますからね。安心してくださいね」
【講評】
夫の突然の死。待っていたのは、高齢者一人の田舎暮らし。買い物や通院、広い土地の草引きから田んぼや山林の管理まで、夫と二人で頑張れたことも一人になると重荷に。
そこで、古希近くになって初めてのマンション暮らしに挑戦することに。高齢になってからの引っ越しは、新たな環境に馴染むまでがなかなか大変なもの。
ただでさえ、戸建てと比較し、希薄に感じるマンション内のコミュニティ。しかし、待っていたのは、便利で安心、安全なマンション暮らし。
諦めたこと、手放したものも多かったけれど、それ以上に得たものも大きい。共用部分のメンテナンス、安心できる管理員の笑顔、そして何より、温かいコミュニティの存在。
高齢者にとって、安心して、住みやすいマンション暮らしが見て取ることができるエピソードとして評価されました。
佳作
絣文様に更紗の型染、京紫の振袖と私の成人式
今西 優花 様 / 神奈川県相模原市
同じマンション、同じ階、隣に住まわれている桜田さんは、私が小さい時からお世話になっているご夫婦です。
「あなたのオムツは私が替えたのよ!」が口癖のおばさん、流石に私が大学にあがると、そんな冗談めかした挨拶もなくなりましたが、今でもにっこり優しく微笑みかけてくれる桜田さんご夫婦は、私にとって大切な存在です。
マンション掲示板に貼られた、こちらのコンテストのポスターに目をやると、私はふと小学生時代を思い出します。あれは小学2年、学校帰りの出来事、鍵を自宅にうっかり忘れ、マンションのオートロックの前で、ひとりぽつねん母親の帰りを途方もなく待っていたところ、ちょうど買い物帰りの桜田さんのおばさんと鉢合わせ、隣の桜田さん家で待たせてもらったことは、今では甘酸っぱい思い出です。
同じマンションでありながら、桜田さん家はクロスもフローリングもインテリアも漂う香りも全く違っていて、フカフカのソファで待っている私に差し出される蒼い陶磁器ティーカップ、グラニュー糖が入ったガラス細工を施したケース、おしゃれな形をした洋菓子、その全てが私にとって新鮮な体験でした。
その日を境に、マンション玄関、エレベーターにて、おばさんに会うたびに、「お茶でもいかが?」と、声をかけられ、ラグジュアリーな異次元ラウンジへと誘(いざな)うのでした。
小学校高学年になると、紅茶の優雅な香り、そして深い味わいを求めて、桜田さん家のインターフォンを押し、お上品なおばさんとの会話を楽しむ密かな『お茶会』は、私にとってなによりも楽しみでした。しかし、中学3年受験を控えると、そんな安閑な時間もなくなり、また、自身の中に根付き始めた言葉、【遠慮】という2文字が桜田さん家との距離を保つようになり、やがて、私達の『お茶会』も静かに自然消滅しました。
先日、珍しく桜田さんのおばさんがお見えになり、玄関先で母との会話の中、「ちょっと、来れる?」と、母が私を呼ぶ声。聞くと、来年、私の成人式に、嫁がれた娘さんの振袖を着て欲しいという提案でした。
買うにも借りるにもかかる費用に両親へどう切り出そうかと思っていた矢先のこの提案、私は即決し深く頭を下げました。
あくる日、早速、桜田さん家へお邪魔し通された和室にて、桐の箱に鎮座する絣文様に更紗の型染、深く濃い紫を基調にした振袖に、思わず唾を飲み込み尻込みする私。
「軽く袖を通してみたら?」とおばさん。焚き染めされ鼻をくすぐる空蝉香に眩暈を覚えながら、恐る恐る着物に袖を通し、うつる姿見にその映えた艶やかな京紫にうっとりしていたら、おばさんのすすり泣きの声、「おばさん…」と私。
ハンカチを押さえながら、「いえね思い出してしちゃって、私には、ずっと、あなたがいてくれたの。あなたは、おばさんにとって、二人目の娘なのよ。あの娘が嫁いで寂しくなった私たちのところにちょうど、ランドセル背負ったあなたが来てくれるようになったの」 「おばさん・・・」言葉が詰まりそうになる私。「ほんとに大きくなったね」 気持ち少し小さく見えたおばさんの肩に気づき、私も思わず涙しそうになり、その涙悟られまいと、 「おばさん、来週の土曜は年に一度の納涼祭です。久し振りに一緒に行きませんか?」 と、それは自身でさえ思っていなかった突拍子もないお誘いでした。
しかし、ぱっと明るさを戻したおばさんは、「そうねぇ、あなたのお父様も子供達とゲーム大会、盛り上がっているみたいだから、今年は、下に降りましょう」
そう、家では無口で、社交的という言葉と一切無縁の父が、摩訶不思議、ここ3年程、祭りでゲーム大会を仕切っていると噂聞く、到底想像できない出来事だが一度拝んでやろう。おばさんと一緒に。
佳作
新施設エアリス完成!
楠 博之 様 / 千葉県市川市
私達のマンションは、600戸オーバーの大規模マンションで、エントランス横に保育園を有する子育て支援マンションとして竣工した分譲マンションです。竣工して10年近くたった2016年5月、まさに青天の霹靂というしかない事件が起こりました。子育てマンションの代名詞である、その保育園が、経営難から廃園するという通知が来たのです。
管理組合の理事達は、保育所施設再利用委員会を発足させ、その中で色々検討しました。保育所としての継続、新共用施設としての改修など、様々な切り口から検討を重ね、住民へのアンケートも積極的に取得し、結果的に、アンケートで住民要望の多かった、広いゲストルーム(既に、ゲストルームは2つ有る)、本格的ジム、レンタルルーム、カラオケルームの複数の共用施設をリノベーションして再構築する事となりました。
当初は、計画どおりに、住民によるデザイン&業者コンペ、確定業者による詳細価格交渉、マンションの総会での改修実施議案承認など順調に推移していました。1番のネックである費用を含めた改修実施案が翌年の総会にて承認されたにも関わらず、いざ、実施に向け動き出したところ、市との協議書の変更の為に臨時総会を開催せざるを得なくなったり、改修申請の際に、建築法関連のトラブル回避の為に建築コンサルを入れたりと、建築許可や申請でも足を引っ張られ、結果、遅れに遅れ、なんと、委員会が発足してから完成までに、2年6か月(改修工事自体は3か月!!!)もかかり、この2018年8月にやっと、オープンする事が出来ました!
本稼働前の7月に、住民への内覧会として4回程開催しました。毎年の総会でも100名程度の出席に対し、なんと、この内覧会には250人を超える住民の方に参加して頂けました。いかに関心が大きかったのか、委員会のメンバーも驚きました。
新しいゲストルームでは、“この広さなら、娘夫婦と孫3人が来ても、窮屈じゃない”とか、“これは、友達を呼んで自慢できる!”といった嬉しいお言葉があり、カラオケルームでは、“シニアクラブ(老人会)のカラオケ大会を、自分のマンションでできる。ありがとう!!”など、感謝のお言葉まで頂きました。
意外だったのが、本格的なジムトーレニングマシンとして、アスリートでも使える多機能な高額ラニングマシンを導入したのですが、お試しされたお年寄りから、“お医者さんからは、散歩やウォーキングをしなさいと言われているんだけど、外の散歩だと躓く心配があるけど、これなら、遅いスピードでも安定しているし、安全だし、止めたい時にすぐ止められるし、是非、使わせてもらいます!”と言われた事です。人生100才の時代に入り、お年寄りの方が、元気だなぁと実感しました(笑)。勿論、本格的な筋トレマシンを安い利用料で使える事に喜んで頂いた住民が多かったです。
レンタルルームでは、早くも、お花教室でも開こうかしら?“、“将棋・囲碁クラブを立上げよう”、“英語塾でもひらくか?”など、住民の皆さんの夢も膨らんだ内覧会となりました。
我々委員会は、都合、4期分の理事会と相対する事になり、その中では、呼び戻しや、安全安心に関する、その期の理事会とのギャップもありました。また、清掃や予約管理に関して、管理会社と何度も何度も話し合い、理事会、管理会社、委員会で協議を繰り返して来ました。結果として、“3人寄れば文殊の知恵的”に、最終的には、住民ファーストで一致し、単なる新しい共有施設構築にとどまらず、既存共有施設まで含めた、当マンション全体の共有施設の予約・管理システムの導入にまでに至りました。
また、オプションの利用料のキャッシュレスシステムも導入し、住民メリットと管理業務の軽減の両方を実現しました。まさに、WIN-WINの関係を構築できたわけです。
委員会も、管理会社も、歴代の理事たちも、この2年半、様々な苦労がありました。でも、この内覧会の住民の笑顔や、感謝の言葉を聞いて、全部、ふっとびました。 “すべては、住民の笑顔の為に!!”このコンセプトで2年半、走り続けた委員会。。。新しい施設の愛称は、住民から募集し、エアリス(EARIS)となりました。
『全ての人(世代)が、誰かを呼びたくなる素晴らしい施設』の英語表記からです。 (The excellent facility which all range (of generation) invite someone) 住民みんなに愛される施設を構築できたこの喜びは、関係した我々1人1人の一生の宝物です!!!!
エアリス完成、万歳!!!!!
佳作
夏は打ち水、冬は雪かき
鈴木 彩加 様 / 青森県弘前市
「お帰りなさい」
あの頃の私は、家族よりもあのピカピカ頭の管理人さんに言ってもらっていた。
私の家は父親のいない、いわゆる母子家庭だった。母は父と離婚し、私達兄弟3人を連れてこの地へやってきた。当時は母、兄2人、私の4人家族で2LDKのアパートメントで暮らしていた。夏は蒸し風呂のように湧き上がる暑さ、冬は保冷剤を踏みながら歩いているかのような廊下の冷たさ。今のようにインターホンにカメラも無く、セキュリティの面でも母はひどく不安だったという。当時私自身は何も感じていなかったが、母ははやく安心できる住処が欲しい、という強い思いと努力から縁があり、今のマンションへと引っ越すことが出来た。私が5歳になるときだった。
最初の1年は保育園に通っていた。マンションには私と同じ年齢くらいの子供たちも沢山居て、皆幼稚園に通っていた。看護師の母は、私を勤務地に近い保育園へ預けて朝から晩まで働いていた。母は一番遅くに迎えにきて、私を抱きしめて新しいマンションに2人で帰宅した。エントランスのドアを、部屋番号を鳴らせてお兄ちゃん達に開けてもらうのも、鍵で開けるのも、幼い私にとっては魔法のようで楽しかった。
保育園を卒園し、小学生になった私は帰宅時間が家族の中で一等はやくなったので、母から家の鍵を与えられた。大人として扱われているようで嬉しかった。授業が終わりマンションに着くと、同級生のお母さん達が揃って子供の帰りを待っている。私の姿を見つけると「お帰りなさい」と微笑んでくれる優しいお母さんたちだ。私は不器用に「ただいま、です」とか「こんにちは」と言って早足でマンションの中へ入っていく。
あのお母さん達の中に自分の母親がいないことは、いつ見ても寂しくなる光景だった。けれどエントランスの奥にある管理人室の小窓にピカピカ光る頭を見つけると、ピカピカ頭もこちらを見て、すぐにあの小窓を開けて「お帰りなさい」と迎えてくれる。
その時だけ私は何の遠慮もなく「ただいま!」と大声で向かって行けた。ピカピカ頭の管理人さんと生意気におしゃべりをするようになったのはいつからだったか思い出せないが、私が一方的に懐いて管理人室に入り浸るようになっていた。
今思えば相当迷惑な子供だったろうが、管理人さんはいつも温かく迎えてくれていた。
管理人室に入ると今日あった出来事、給食の時間おしゃべりが多すぎて席を先生の隣にされたこと、作文を褒められたこと、1から10までなんでも話をした。管理人さんは、特に面白い話でもなかったろうに、全部目を見て聞いてくれるし、話のオチに対するリアクションも良かった。本当は母が働きに出ていて少しだけ寂しいことも、管理人さんは絶対誰にも言わないからこっそり言ったこともあった。
管理人さんは母のことも母の仕事も褒めてくれていたので、そんな話をしても母を悪く言わないこともわかっていた。時にはおしゃべりだけに留まらず、マンションのお掃除にも付いて行ったりした。死にかけのセミを見つけて2人でワアワア言ったり、掃いても掃いてもキリのない落ち葉や誰かが吐き捨てたガムも、管理人さんは片付けた。
そういえば私は、小さい頃から路上にガムを吐いたりしない。当たり前といえば当たり前だけど、もしかしたら『誰かが片付ける』事をきちんと見て知っていたからかもしれない。マンションのてっぺんに2人で登ったこともあった。管理人さんが用事があり屋上へ行く時、「内緒だよ」と連れて行ってくれたのだ。絶景!ではなかったけれど、いつも見ている景色よりも圧倒的で、私だけ連れてきてもらえたことに優越感を感じていた。
夏休み前の夕暮れ、日が沈みかけで屋上のアスファルトはまだ暖かかった。冬には雪かきをしながらハゲ頭にポンポンのついたニット帽を被ってマフラーをぐるぐる巻きにしているので「スノウマンみたい」と私は笑った。
月曜日、水曜日、金曜日。管理人さんが居たのは1週間の内この3日だけだけど、たくさんの季節を共有した。
私は中学生になっていた。部活動に入り、管理人さんと過ごす時間が極端に減っていた。その時は新しい友達も沢山出来ていたし、かっこいい先輩にきゃあきゃあ言ったりするのに夢中で、寂しさはなかった。たまに会えれば、会えなかった分の出来事を存分に話した。 迷惑そうな顔もせず、この時もまたひとつひとつ丁寧に聞いてくれていた。
中学2年生になる時だった。この頃は学校にも部活にも慣れて、家で手伝える家事も増えて、忙しい毎日を送っていた。
その日帰ると、管理人さんと同じような服を着た、見慣れない男の人が居た。以前、近くのマンションの管理人仲間が来ていたこともあったので、お友達かな?と思いながら「ただいま!」と声をかけた。管理人さんはいつものように私を管理人室に招くと「このマンションの新しい管理人さんだよ」と丁寧に紹介した。こんにちは、よろしくねと挨拶をしてくれた新しい管理人さんに上手く返答できずに「新しいって何?なんで今頃?辞めるの?」とまるで別れを告げられた恋人かのように管理人さんに食って掛かってしまった。
管理人さんは、元々このマンションから遠いところに住んでいた。当時はわからなかったが、よく自転車で通っていたなと思うほど遠いところだった。あの距離なら2時間程かかったのではないだろうか。以前から自宅近所で希望を出しており、ようやく希望が通ったとの話だった。ひと通り話を聞いてから少し冷静になり、「良かったね!」と管理人さんに言うと管理人室を出た。
仕事から帰ってきた母親に管理人さんが異動になることを伝えたら、ひとしきり驚いた後、「プレゼントを送ろう。寂しいけれど、あなたはとってもお世話になったわね。」と提案してくれた。自分では思いつかなかった感謝の伝え方を母に勧められて、私は素直に少し泣いた。
お餞別に選んだのはえんじ色のネクタイだった。管理人さんはいつも指定の作業着だったけれど、中にきちんとシャツを着てネクタイを締めている姿がよく似合っていて、印象的だったからだ。わざわざメッセージカードは恥ずかしかったので、包装紙の上から「今までありがと」と書いて、私が学校へ行ってる間に母から渡してもらった。母は私の数々の無礼を管理人さんに謝罪し、沢山お礼を伝えた様だ。管理人さんは涙ぐんでいたらしい。泣きたいのは私の方だったよ。
あれから10年以上経った今も、母はピカピカ頭の管理人さんに深く感謝している。「片親で不安なこともあったけど、近くで自分の子供をしっかりと見ててくれる人がいるだけでどれほど心強くありがたかったか」だそうだ。
私はといえば昨年結婚した。どんな話でも目を見て聞いてくれて、道にガムを吐いたりしない、とっても心の優しい男の人と。もしも彼が将来ハゲても、私の愛情はきっと揺らがないであろうと思う。
佳作
ここが大切な故郷
水谷 拓志 様 / 東京都足立区
ここは東京の下町にあるタワーマンション。築10年目を迎えたこのマンションには、入居した時から長年勤める管理人Sさんがいる。白髪でスラっとした背格好。ちょっと洒落た雰囲気を醸しているが、嫌みのないナイスシニアだ。なんでも大手企業の幹部を経験した後のセカンドライフとしてマンションの管理人の仕事を選んだらしい。
このタワーマンションは500戸を超えている。だから毎日のようにいろんな事が起こる。住民もいろんなタイプの人がいて、時にはトゲトゲしい事も起きてしまう。そんな時は管理人のSさんがいつも落ち着いて、ほほ笑みを浮かべながら対応している。
上階の足音が気になるとか、近隣の部屋のベランダから虫が大量発生したという話は日常茶飯事だ。ベランダからタバコの煙が入ってきて洗濯物に臭いが付いて困るというクレームが入った時は、大変な剣幕で奥様が管理室にやってきた。しかし後日、奥様が謝りに来た。
実はご主人が隠れてタバコを吸っていたことが洗濯物の臭いの原因だったというのだ。
クレームを言いに来る人はたいてい熱くなっている。管理室にやって来る時は修羅場だ。もう眼つきがちがう。
Sさんはそういう時、聞き役に廻ってうんうんとうなずいて、「そうですかー」「それはそれは」「あーそーですか」などと相づちを打ちながらしばらく聞いている。
すると頭に血が上っている人は徐々に落ち着いてくる。Sさんに話を聞いてもらっていると、なんだか不思議と気持ちが和やかになってくる。彼らのボルテージが下がって来たタイミングを見計らって間髪を入れず、Sさんから「じゃ、付近のお部屋に注意喚起のチラシを投函しましょうかね。」「それでちょっと様子見ませんか?」という提案。これがまた絶妙な間合い。
すると、瞬間湯沸かし器と化していた人も、最後は「すみませんねSさん、お手間かけます~。」と言って少し表情を和らげて部屋に戻っていく。多少理不尽な玉が飛んで来ても、丁寧に対応するのがSさんの流儀。住民の多くはそれを知っているからSさんを信頼している。
ある日の寒い夕暮れ、男の子が管理室のカウンターから背伸びして顔を出した。冬だったのでもう辺りは暗くなり始めている。 男の子は「Sさーん」と小さな声で呼びかけた。
「はーい。」とSさんが管理室の奥から出てきた。いつものように落ち着いた声で微笑んでいる。
見ると、この小学4年生の男の子は目に涙をいっぱい浮かべている。 「おや、どうしたんだい。花粉症にでもなったのかい。今年は早いねー。」などと、冗談を言っても、男の子は涙目で背伸びしたままこちらを見ている。そして少し震える小さな声で言った。
「今夜Sさんのここの家に泊めてください。」「ここは僕の家じゃなくて、管理室なんだよー。でもいいよ、こっちに入っておいで」とSさんはニコニコしながら、男の子を管理室の執務室の方に招き入れた。(普段、子供は管理室の中には入れない。)
どうやら男の子はSさんの家が管理室だと思っていたらしい。小さい子は、みんなSさんが管理室に住んでいると思っているようだ。(だがそんなわけはない。)
Sさんは普段から、このマンションに住む子供たちに声をかけている。子供たちからも話しかけて来るし、とても慕われていた。 「さあどうぞ。ここに座って。」と男の子を椅子に促す。
「いいものあるよ」と自分の机の引き出しからチョコレートとクッキーを取り出す。ついでに奥の冷蔵庫から冷たいジュースも男の子に手渡した。
そして「で、どうしたんだい?」と、Sさんはすぐに男の子に聞かない。最近どんなマンガが流行ってるの?なんて子供と世間話をした。このあたり60歳後半のこの人が持つ対話術は冴えている。本当の事を人が話し出すためには「アイスブレーク」の時間が必要なのだ。
男の子がチョコレートとジュースと、Sさんとの会話で少し落ち着いてきた。泣きべその表情が緩んできた頃。
そしてタイミングを見計らってSさんが切り出す。
「で、どうしたんだい?」
すると一瞬表情が硬くなった男の子が話し出した。
「宿題しろってママが怒った。僕はね後でやるからって言ったんだけど」「うんうんそれで?」とSさん。
「今すぐやりなさいって。僕は後でやるからって言ったんだ。」「そうかそうか。」「そしたらママは、言うこときかないんだったら出て行けって。」「それでどうしたの?」「家を飛び出して、外に出て歩いていたんだけど暗いし、寂しくなって。」「悪いのは僕だけど、どうしていいかわからないの。」男の子は3時間くらい付近を歩き回っていたらしい。
Sさんその話を聞き終わってから一呼吸おいてニコニコしながら言った。
「ママは、君の事を大事に思っているはずだよ。大事に思っているからキツイ事を言うんだ。」「きっとママは心配して君を探している。」 男の子はうつむき加減に「そうかなー。」と心配そうに言った。
そんな会話をしていた時、突然管理室に男の子の名前を呼ぶ女性の声が響いた。ママが管理室にやって来たのだ。そしてママは優しい目をしていた。
男の子は立ち上がりママに向かって走って行き、抱き付いた。「ママごめんなさい!」 ママは、ほっとしたのか少し涙を浮かべていた。実はSさんが男の子の家にすでに電話してママに連絡していたのだ。「お子さんは反省しているから怒らないでくださいね。」という言葉も添えて。
男の子はその後、高学年になり今は、子供会のリーダーを務めている。夏休みのラジオ体操では小さい子供たちの面倒を見ている。ここは東京の下町にあるタワーマンション。築10年を迎える。ここで生まれ育った子供たちにとってはこの都会のマンションが故郷だ。将来、子供たちが大人になって世界のどこかで活躍している時、日本の東京の故郷に優しい管理人さんがいたことを、ふとした時に思い出してくれるといいね。
おわり
佳作
思いやりのお裾分け
小森 ちあき 様 / 大阪府八尾市
築44年で11階建、262世帯の現在居住する分譲マンションを購入したのは今から6年前。それまでは長年、賃貸マンションに住んでいたがそろそろマンションを購入を検討している旨を父親に話すと、実家近くに建つこのマンションを薦められた。古いマンション故に、少し戸惑うもののいずれ訪れる実家の両親の介護のことを考えると近いに越したことはない。その上、メンテナンスが行き届いているせいか外観、内観共に新築当初とそう大きな変わりはないように感じ、安価が決め手となり購入した。
思い起こせば、このマンションが建った当初、私は小学3年生であり、マンションという存在すら知らなかった。そびえたつ鉄筋の建物、エレベーターやベランダなど見るものすべてが憧憬の対象であり、まるで外国の童話に出て来るお城のように感じ「大きくなったらこのマンションに住む」などと言っていたことを思い出し、そういう意味では夢が叶った訳か。と苦笑いした記憶が蘇る。そうしてこのマンションを購入し生活を始めたが、13年前に主人を亡くした私は一人暮らしで、その当時仕事も忙しくほとんど住人との接触はなかった。しかし、別だん不自由さもなく人間関係のトラブルのことを考えると、むしろ心地よささえ感じていた。
そんなある日、仕事帰りに自転車で激しく転倒した私は右膝を骨挫傷してしまい、医師からはしばらくは安静との診断が下ったが、家族のいない私は痛い足を引きづりながらも家事をこなさざる負えなかった。痛みと情けなさが入り混じる混沌とした日々の中、ある日上階に住む60歳くらいの女性が手作りのお弁当を持って来て下さった。
聞けば、松場杖をつきながらコンビニ弁当を下げて帰宅する私を見かけ困っているのでは、と思い同じ階の住む友人に私の部屋番号と家族構成の情報をもらって届けて下さったという。
そして「何か困ったことがあったらすぐに電話をしてね」と自分の名前と電話番号そして部屋番号を書いたメモと「夕飯のおかずのあまりものだから気にしないで」との優しい嘘を残し帰って行かれた。
その後も、その方から数回届くお弁当を見つめながら、住人との交流がないことを心地よく感じていた己の傲慢な心を猛省すると共に「こうしていただいた思いやりを、落としたりこぼしたりせぬようしっかりと心の中で握りしめ、いつの日かたくさんの人にお裾分けしよう」と心に誓った。
その後、亡くなった主人の両親の介護を担うために仕事を辞め、少し時間に余裕ができた私がこのマンション内で見たものは『思いやりのお裾分け』が日常茶飯事、まるで当たり前のように行われているということであった。高齢者宅を定期的に訪問したり、子育て経験の豊富な主婦が若いお母さんの子育ての相談に乗る。
また、忙しい両親の代わりに子どもの宿題を見る人もいる。そして、毎月第1日曜日には集会所を解放し、洋裁や麻雀教室を行い住人同士の座談の輪を広げようとの取り組みもなされている。また、旅行や長期間家を留守にする際には、ご近所にその旨を伝えるため、最新のセキュリティーシステムなど無くとも、人の目が万全のセキュリティー対策を担っている。
もちろん、262世帯全ての家庭を把握することは不可能かも知れないが、住人同士が誰に言われなくても、挨拶と対話を心掛けどんどん友好の絆が結ばれていると私は感じている。もちろん、我がマンションも社会現象となりつつある高齢化が進んではいる。
しかし、高齢者の方々には培われたかけがえのない知恵と知識を提供していただき、それを若者のみなぎるパワーと融合させ、管理組合や自治会運営に大きく貢献していただいている。
云わば、我がマンションの高齢者の方々は生涯現役、生涯管理組合及び自治会の名誉顧問なのである。では、何故そんな温かな気風が我がマンションにはあるのか。それは、きっと昭和49年新築当初にあった『向う三軒両隣』『困った時はお互い様』の日本の日本人らしい精神が、目に見えない財産として受け継がれているのだと私は確信している。
実は、このマンションを購入する前に私は最新のタワーマンションの見学会にも参加した。そこには、確かに現代人のニーズにあったモノや効率。というセンスがあり心動かされたのも事実である。しかし、それらがなくとも我がマンションには決してお金では買えない、心通う温かな人間社会が広がっており、今は心からこのマンションを愛し、最高の住まいだと自負する私がいる。
たった、一粒の思いやり。すべてはそこから始まる。その小さな一粒、一粒が線となり、その線が繋がり面となり広がっていく。私も骨挫傷した際に、上階の方からいただき大切に心の中で握りしめていた思いやりを、たくさんの人にお裾分けできるよう心を磨くと同時に、私の自慢のお城にどんどん美しい笑顔の花を咲かせていきたいと思っている。
佳作
備忘録
橋本 アヤコ 様 / 宮城県仙台市
管理人さんとは、言わばマンションの顔のようなものだと感じています。築30年を越える、地方都市の中心部にあるこのマンションには、とても素敵な管理人さんがいます。彼の名前は鈴木さん。
このマンションに越してきて、一番驚いたことは、住人皆さんが挨拶をするということ。マンションは、あまり人々が関わることのない場所と思っていました。ところがこのマンションは違います。誰かと会えば、必ず挨拶の声が聞こえます。よくよく観察してみると、管理人の鈴木さんが、ニコニコ笑顔で大きな声で挨拶してくれるからなのかな?それが住民にも伝染しているのだろうな、と感じます。
この鈴木さん、本当に働き者なのです。管理人室にただ座っているなんていう姿をみたことがありません。いったいどこからそのパワーが出てくるのか・・・失礼ながらお歳もそれなりに重ねてらっしゃるだろうに。雪も降るこの場所では、灯油が欠かせません。灯油宅配業者はエントランスに灯油缶を置いていくだけなので、本来自分達で部屋まで運ばなければならないものを、鈴木さんは赤ちゃんがいる私のフロアに運んでくれるのです。そんなこと管理人さんの仕事の範疇ではないはずです。お礼を言うと、「赤ちゃん抱えて、こんなの運んじゃお母さんが大変だよ。夜だって眠れてないんでしょ?」と。
また、鈴木さんは仕事熱心でありつつも、おしゃべりが大好きでユーモアのある方です。エントランスの掲示板に小さなホワイトボードがあります。そこには週のあたま、季節の変わり目など、ことあるごとに鈴木さんの呟きや、応援している野球チームやサッカーチームの試合結果など、クスッとさせる一言が書いてあり、それをチェックすることが私の密かな楽しみでもあります。 そして鈴木さんは、大変子供好きな方です。子供達は帰ってくると必ず管理人室をのぞき込み、「ただいま」「おかえり」のやり取りをし、自宅へ帰っていきます。
なかには鈴木さんのお仕事を楽しそうにお手伝いする子供もいて、その様子は見ていてとてもほっこりさせられます。第2子出産の為、2か月ほど家を空け、出産後一度マンションに戻った際に「名前決まったの?」と聞かれ、お伝えするとすごく嬉しそうに赤ちゃんをあやしてくれました。
しかし私が実家から戻った頃、鈴木さんはお仕事を休むようになりました。代行の方が勤めること約1か月ほどでしょうか。ある時鈴木さんの訃報を聞きました。その際、「これ何ですかね?」とメモを見せられました。
そこには鈴木さんの字で、マンションに住む子供たちの名前と年齢が、書いてありました。私が産んだばかりの子供の名前もそこにありました。(一度会っただけなのに)。
最後の最後まで、このマンション住民を気にかけてらっしゃったのだろうなと、涙が溢れました。管理人のプロでした。亡くなって数年経ちますが、今でもまだ思い出します。本当にありがとう。
佳作
「そう、誰だって、いつかは」
関口 英明 様 / 東京都新宿区
2011年の9月、私の住むマンションの管理組合定期総会の席上のことだった。予定されていた議事も終わり会員懇談会に移行した時、居住者の1人、お年を召した婦人がおもむろに立ち上がり深々と頭を下げられた。
「ご報告が遅くなりましたが、主人は今年の春に亡くなりました。晩年は皆さまのお蔭で、快適な、車椅子生活で快適というのもおかしいですが、そうした日々を送らせていただきました。何よりも住民の皆さまの温かいお心遣いに大変感謝いたしておりました。『このマンションに越してきて良かったね』と事あるごとに申していました。本当に有難うございました」。
マンションは昔の江戸城の外堀に近い都心に立地する、1997年竣工の5階建て30戸ほどの中規模な建物で分譲。緩やかな坂に沿って建てられていて、坂下の方にシャッターがあり、そこが地下1階の駐車場入口になっている。大半が60~70m²の住居でファミリー層もいるが、折からの「都心回帰」ブームに乗ってかシルバー2人世帯も少なくない。
この総会から遡ること3年前の2008年、私は2度目の管理組合理事を務め、翌年に控えた「大規模修繕計画(2009年6月実施)」の検討、策定に携わっていた。管理会社のアシストにより業者選定、提出された見積もりの検討と料金交渉など作業は順調に進み、残すは修繕項目と予算の最終確定という段階に入っていた。
そんな時点での理事会で、ある理事から相談が持ちかけられた。「3階のKさんのご主人が車椅子を使わなければならなくなったそうです。ご本人からの具体的なアピールはありませんが、エントランスの2段の段差を越えるのがとても大変だそうです。今回の大規模修繕で何とか改善してあげられないものでしょうか?」
その時の私は正直に言って「えーっ、ここまでまとめてきたのに今更やり直し?」と心の中で叫んでいた。しかしこのマンションの住人、理事には親身になる性格の方が多い。「エントランスの段差をスロープにしたらどれ位の工事費がかかるか、ともかく見積もりを取るだけは取ってみましょう」ということになった。
次に開催の理事会で管理会社から示されたエントランス工事の見積もりは約200万円。修繕工事全体の予算規模からはとても捻出できる金額ではない。しかも「あまり広くないエントランスの形状からみてスロープにすると著しく景観を損ねます」と管理会社の担当者。出来ることなら何とかしてあげたいが、どう考えても管理組合としては「打つ手」がない。理事会をため息が支配した。
と、別の理事がボソッと「駐車場のリモコンはダメでしょうか?」とつぶやいた。「えっ?」と一同。「ほら、駐車場のシャッターを無線で開閉するリモコンですよ、駐車場契約者が持っている。あれでシャッターを開けて坂下の道から直接地階に入れる。あとはエレベーターで3階に行けばいい」。理事の誰一人として異議を唱えるはずがなかった。唯一の懸念は駐車場契約者から何らかの意見が出るかどうかだった。
その後間もなく開かれた大規模修繕説明会では、計画の詳細とともに3階Kさん宅へのリモコン貸与の件が諮られた。30歳を過ぎたばかりと思われる主婦の方が言った。「誰だって、いつかはそうなる(車椅子を使うことになる)かもしれません。とてもいいことですね」。異議は、出なかった。
それからしばらく、駐車場のシャッターを開けて車椅子で出入りするKさんのご主人の姿が見られた。眼が合うとうれしそうに会釈してくださった。マンションの住人全体が幸せな気持ちになった、そんな気がした。
そして、そんな時期は長く続かず終わってしまったけれども「誰だって、いつかはそうなるかもしれません」という思いやりの言葉は、今もこのマンションに残り続けている。「そう、誰だって、いつかは。だから、、、」と。
佳作
エレベーター
入谷 千枝子 様 / 神奈川県横浜市
私たち家族がこの「ファミール金沢文庫」に越してきたのは24年前、重度の障がいのある長女5才、年子の二女が4才の時でした。
ある事情で転居を急いでいた私たちにとって、新しい住まいに望む大きなものは車椅子の長女を毎日外出させることができるエレベーターのあるマンションということくらいでしたが、4人で見学したモデルルームは、真新しい家具が各部屋にセンス良く配置され、おしゃれな照明の演出で、まるで夢のような生活が待っているような気持ちにさせられたことを今でも覚えています。
68世帯の入居者は娘たちと同年代の子を持つ家族が多く、親睦を兼ねた共有スペースでのバーベキュー、ビニールプールと皆が楽しむ様子が見られましたが、障がいのある娘のいる私たち家族はなかなか馴染むことができませんでした。その頃マンションの人たちとの関わりはエレベーターの中がほとんどだったように思います。そのエレベーターでも、今まであまり車椅子の人と接する機会がなかった子供たちが幼稚園や小学生の頃は私達とどう接したら良いのか分からず居心地が悪そうにしていましたが、その子達も中学生くらいになると、閉まりそうになるドアをそっと押さえてくれたり、はにかみながら挨拶をしてくれたり、そんな時は共に歩んできたことを感じ嬉しく思ったものでした。
特別支援学校の高等部を卒業し、家族の送迎で地域活動ホームに通い始めた長女をそろそろ迎えに行こうと思いながら掃除機をかけていた時、大きな揺れと共に掃除機の電源がプツリと切れてしまいました。 2011年3月11日、東日本大震災でした。あまりの揺れにうろうろとするばかりでしたが、どうやら停電で家中の家電が止まってしまっていることに気づき、ハッと我に返り慌てて娘を迎えに玄関を出ました。案の定、5階のエレべーターも止まっていたため、非常階段を使い、取りあえず管理人さんに「30分後に娘を連れて帰ってきます、一緒に5階まで車椅子を上げて頂けますか?」と声を掛けると、快く引き受けて下さいました。
停電で信号も全て止まっている中、娘を連れ帰り管理人さんと娘が座っている車椅子を持ち上げようとした時、「僕も手伝います!」その春大学生になるM君が勢いよく走ってくるのが見えました。日頃から元気よく挨拶をしてくれるM君はいつもと同じ笑顔で、私が持っていたところを代わってくれました。私は荷物を持ち、管理人さんとM君が車椅子を持ち上げ1、2歩進んだ時、外出先から帰ってきた2階のTさんが「待って、息子を呼んでくるから」と声を掛けて下さり、程なくして高校生のA君がお母さまの後から怪訝そうな顔で近づいてきました。A君は状況をすぐに理解してくれ「どこを持てば良いですか?」と聞いてきてくれました。娘の腕の下の車椅子のフレーム部分をお願いしましたが、たくましい3人の男性でも車椅子は重く、まして重度の障がいがあるとはいえ、生身の人間を乗せての移動です、大変でない筈はありません。それでも、M君、A君、管理人さんは掛け声を掛けながら、ゆっくりと丁寧に一段一段上がって下さいました。日頃は緊張をすると声を上げたりする娘ですが、その場の雰囲気で皆さまの厚意を十二分に感じていたのでしょう終始落ち着いて身を委ねていました。
どのくらいの時間が過ぎたか想像できませんでしたが、5階の我が家のドアの前に着いた時は、ただただありがたいのに、言葉が出ない私達の前で、お三方は緊張が一気にほぐれたような明るい笑顔で応えて下さいました。
障がいを持つ娘を育てていると、今までも本当に沢山の人たちに助けられ、その度に感謝の気持ちでいっぱいになりましたが、ある時、感謝の気持ちを持つと何か温かいものが体の中心を流れそれがパワーに代わる、そんな不思議な感覚を覚えました。
今では立派な社会人になられたM君とA君、たまに顔を合わせることがあり、その変わらない笑顔を見ると助けて頂いた事を思い出し温かい気持ちになります。エレベーターにこだわったマンション選びをしたけれど、それに代わる人の温かさが溢れたマンションに力をもらいこれからも前向きに暮らしていきたいと思っています。
佳作
少しの勇気と協力で創る快適マンションライフ
是近 真一 様 / 東京都大田区
私の住むマンションは、多摩川の近くの建築後30年経った7階建ての26所帯と小ぶりのマンションです。住民はお互いに仲良く、といっても深入りはしない程度の大人の付き合いをしています。過去、住民同士のいざこざもなく、夜の騒音問題、盗難、事故などもありません。
しかし、問題は常にあります。
マンションの前は、建設機械のレンタル会社で、朝7時から夕方7時までは、土木関係の人が出入りし、トラックやキャタピラーの付いた建機を移動させる騒音や高圧洗浄の水音が激しく、またトラックの駐停車により、道路が半分ふさがれ歩行者に危険なことでした。総会や管理組合の中で「何とかしよう」と話はでるのですが、いざ交渉となると、皆さん嫌がり、話は進展しないのです。それでも住民の安全と環境保全には代えられず、安全対応・騒音低減の要望書を作り、その会社の社長・総務部長宛てに理事全員で訪問説明し、協力を要請しました。その後どうなるのかと、様々心配しました。
1か月ほど経過した後、会社から来てほしいとの依頼がありました。恐る恐る、訪問したところ、指摘した問題点ごとに、社内で対応を考えて実施していただけることになり、従来に比べて相当の改善ができました。加えて、子供の安全対応のため、自転車などの「飛び出し注意」の看板も作成・設置していただきました。
そのためか、従来は挨拶もしない関係であったのが、今は、必要な機材(テーブル、椅子)などを無料で貸していただくようになり、先日はお盆休みの前のバーベキューに呼ばれてご馳走にもなりました。
何事も、怖いとか、無理なのではないかと思い、我慢・うやむやにしていたら駄目で、筋を通してきちんと話し合うことが、問題が発生したマンション生活では、重要だと思います。
また、今年、油圧式のエレベーターを巻き上げ式に交換することになりました。エレベーターは2基あるのですが、2塔がそれぞれ独立しており共有できません。従って、エレベーターが止まってしまうと、全員階段を利用するしか方法がなくなります。エレベーターの交換工事期間は1か月です。5階から7階には後期高齢者がおり、その対応を管理組合は様々考え、3階5階に椅子を置いて休憩所を造り、困ったときは、理事を呼んでくれるようにしました。重い荷物などは早めに1か月分貯蔵し、新聞などはエレベーター工事が終わってから出すように等、様々な対応も依頼しました。それでも、日々「あの人は大丈夫かなー」などと、心配していました。
ある日の掲示板に、小学生の兄弟から、「困ったら、僕たちに話していただければ、お手伝いします」のメッセージ・絵が貼ってありました。メッセージには、大事にしているシールなども貼ってありました。マンションの住民は大喜びで、日々の階段の上り下りにも元気がつき、無事に1か月の工事が終わり、立派なエレベーターが完成しました。
子供たちが自主的に協力しますという姿勢は、もちろん家庭の教育が素晴らしいことでしょう。自分は子供でも困った人をできる範囲で助けたい、そしてその思いを行動に移したことに、マンション全体の人が勇気とやさしい気持ちを感じ、感動と元気をもらいました。
このように、このマンションでは住民のできる範囲の協力を得て、笑顔での挨拶、花や植物を楽しみ、そして安全で快適な生活を促進するマンション生活をおくっています。
今日も、子供達の声が元気に響いています。そして、これから先にも続いていくと良いと思っております。
佳作
マンションが家族を変えた!
高橋 かおる 様 / 兵庫県尼崎市
「西瓜食べる?」
「欲しい!」
スマホの返信を確認して西瓜を切り分けてラップを掛け、そのままエレベーターに乗って娘夫婦の部屋の前に置いて自分の部屋に帰る。この間2分弱。これが50代前半の私たち夫婦の日常だ。
人生の転機は5年前、今のマンションに住み替えた時だ。それまで25年間、結婚時に購入した郊外バス便のマンションに住んでいた。子育てと仕事を両立するために、私の実家から比較的近いマンションを選び、両親にはよく助けてもらった。その両親を相次いで見送って数年、夫と私は50歳手前、一人娘は大学生になっていた。
仕事優先で生きてきた夫と私は一人娘との関係が良好ではなく、最大の悩みであった。就職時に娘は出ていくと明言していたので、次はとにかく娘に迷惑を掛けることなく夫と私の通勤、買い物、通院に便利、そして老後の人生を楽しめる家を探し始めた。年齢的にバリアフリーで大きな修繕など自分で算段しなくてよいことも条件に加えると、新築か築浅マンションに迷いはなかった。
単身赴任中の夫が帰宅するたびにマンション見学に二人で出掛け、約半年後に完成前の大規模新築マンションの購入を決めた。決してすべてに満足ではなく、部屋の向き、土地柄等々便利以外は妥協したことも多い。買い替え時に発生する大きな損失も背負った。
それから1年、好みの内装の色を選んだり、オプション工事を依頼しながらも、娘は全く無関心。
「私はその街には住みたくないし、一人暮らしする」。
引渡し前の内覧会には私一人で出掛け、扉を開けると思い描いていた以上の素敵な部屋で、一目で私は気に入った。
鞄にしのばせてきた亡くなった両親の位牌をキッチンカウンターに置いた瞬間、涼やかな風が通り抜け、両親も「良いマンションだね」と喜んでいるように感じた。
携帯電話で各部屋の写真を撮り、遠方の夫と、一応娘にも送ると予想外に娘から即返信。
「私も見に行きたい」。えっ?
数日後家族三人で再度出かけると娘は「私の部屋はここ」と嬉しそうに話し、家族三人で引っ越した。
引っ越し後は、とにかく便利!快適!以前は、郊外の駅についてバスを数十分待ち、バス停からさらに坂と階段を上がってようやく我が家だったのが、引っ越し後は大きな最寄り駅に着くと明るい商業地を通りぬけて数分で我が家。信じられないくらい毎日が楽になった。
室内はバリアフリー。食洗器やミストサウナなど、使ってみると手放せない便利な設備。念願のペットも飼えた。
そして何より、娘の生活と性格が激変したのだ。それまで休日は殆ど自宅に籠っていたのが、ほぼ家に居ることがないくらいに出歩き、交友範囲を拡げていっているようだった。ちょうどその頃付き合い始めた彼もすぐに自宅に連れてきた。
就活に際しては、自宅通勤でも選択肢が以前に比べて遥かに増えたからと、親に相談することなく以前から希望していた念願の就職先を決めてきた。彼の下宿先も近く、高層階の我が家からは各地の花火大会が特等席で見えるので、彼もやってきて、ときには夫も加わって楽しんだ。
そして去年、娘は彼との結婚を決め、私たちと同じマンションのフロア違いの部屋を購入することになった。自分の実家が遠方だからとはいえ、妻の実家と至近距離に住むことになる娘の夫とご両親に申し訳なく、何度も意向を確認したが、ニコニコと問題ないとのこと。
同じマンションに住んでみると、本当に便利!冒頭のおすそ分けも、すぐにそのままの服装でGo!料理は鍋のまま持参することもある。暴風雨でも猛暑でも傘は不要。旅行に行く際には、互いのペットの世話を頼める。かといって頻繁に行き来をしているわけでもなく、3日くらい顔を見ないことも普通。徒歩1分とはいえ玄関が離れているので、異なる生活時間帯に煩わされることもない。合鍵は念のため互いに預かってはいるが、無断で入ることはしない。夫も私も仕事と趣味に忙しく、娘夫婦に関わる暇もない。たまに、お婿さんのスーツがくたびれてきたと感じたら一緒に買いに行ったり、義理の関係ながらも男の子の親の経験もさせて貰っている。
近々孫が生まれる予定で、さらに便利になる。里帰り出産も不要。娘の育児休業明けにはマンション内に併設されている保育園に入園できそうだ。孫が小学校に入る頃私は定年を迎え、「〇〇ちゃん、お帰り」と自分の子供にできなかったことを孫にしてやれる。人生は恩送り。
一人娘が出ていくと思い、寂しく感じたこともあったが、結果、優しいお婿さん、ペットのうさぎも家族に加わり、今度は孫が生まれる。元々三人一家族が、二人&一羽と三人&一羽の賑やか二家族になるのだ。関係の良くなかった私たち親子にこんな春の陽だまりのような日々がやってくるとは思わなかった。
「引っ越して良かったね」は夫と私の会話の中での最頻出WORDだ。
私の人生の三大良かった決心は、夫と結婚したこと、娘を出産したこと、そして今のマンションに住み替えたことだと思っている。
佳作
大規模修繕 いつか来た道、そしてこれから行く道
中澤 亜紀子 様 / 埼玉県入間市
きゅきゅっ、と耳障りな音がして顔を上げると、テレビの中で、女性の手がホワイトボードにアミダくじの線をなぞるのが見えました。それは『マンションの大規模修繕委員会“委員長”決定の瞬間』___マンションのコンサルタント会社のCMだったのです。
委員会発足から工事へと進んでいくドラマ仕立てのシリーズでキャストも大変豪華なものでしたが「うわ、デジャヴだ…!」と思わず笑ってしまいました。
私が同様にアミダくじに線を引いたのが震災直後の三月末。次年度の管理組合の副理事長職(翌年の理事長職ほぼ確定ポスト)を巡ってのことでした。
当然誰もやりたがりません。管理事務所に役員候補者が集まっても話が進むことはありませんでした。私は夫が単身赴任中で、息子がガッツリ受験生。皆さま、それぞれの事情はありましたが。面倒くさくなって、つい言ってしまったのです。『いっそ、アミダくじにしませんか?』と。
発案者自ら最初に線を引いて名前を書いたら、見事に引き当ててしまった副理事長職…まるでコントのようだな、と半ば他人事のような気持でその結果を見ていたのですが、ゴネても誰かが代わりにやってくれる保証はないし。むしろ専門的なスキルを持ち合わせていない主婦なので、『副理事長、引き受けるから協力体制よろしく!』と全員を巻き込もう、と了承してしまったのです。
なのに、私の代でまさか『数年先だよ』と言われていた大規模修繕を繰り上げて実施するなんて!
理由は消費税の8%への増税です。うわ、まじか!?と正直、顔が引きつる思いではありましたが。もうやるしかない、と腹を括りました。
私どもの修繕委員会は、理事会関係者、前回の大規模修繕の経験者、それからゼネコンにお勤めの方や経理のエキスパート、マンション管理会社の業務経験者などがほぼ自発的に集まってくださり、管理組合の理事長だった自分がもっとも使えないヒヨコのような状態でした。
それからは会議!会議!会議! ほぼ毎日管理事務所に詰めて何かの話し合いをするような日々でした。
当然全てボランティアです。今思うと、あの頃の私たちは皆、何か変な脳内物質でも出ていたんじゃないでしょうか。まるで『大規模修繕ハイ』みたいな状態で全力疾走していたような気がします。
修繕の項目を決めて、設計事務所のコンペ、工事業者の選定、と怒涛の日々で、気が付いたら着工していました。やる前も大変、やり始めたらもっと大変! でも団地内で顔見知りは増えていくし、協力してくれる人はどんどん手を挙げて参加してくれるようになったのです。大変ではあっても、それはちょっとした非日常感覚で、面白くもあったのです。
しかしそれを見守ってくださっていた理事会の先達のおじさま方は、内心とてもドキドキだったようです。実は、このマンションの歴史の中で、私が初めての女性理事長でした。それ以前にはアミダで引き当てた女性が『できません!』と号泣、完全拒否、あげく引っ越してしまった、という伝説があったとかで、当初私に対して『大丈夫かなぁ~』と完全に見守り&指導体制だった、というのです。
ありがたいことです。
彼らは、実際ほぼ知識のない私にもわかるようにレクチャーを繰り返し、進むべき道を示唆して下さり、そのおかげで修繕委員会は泥船にもならず、なんとか乗り切れそうな気になっていた…そんなある日、予想を超えた大雪が降り、トラブルが発生しました。
それは、理事会・修繕委員会・工事業者が一丸となって立ち向かわなければならない規模のものとなってしまったのです。根本的な状況の回復と、工事のタイムラインの見直し、と様々なことを一度に進めていかなければならない私たちは半ばパニックに足を突っ込みそうになりましたが。
それを踏みとどまらせてくれたのは、やはり『仲間』たちの心強い支援でした。平日夜の緊急会議にも、仕事を切り上げて参加してくれた建設会社勤務の方や、専門知識のある住人さんがいました。集会室のドアを開けて彼らが入ってきてくれた時の安心感は今でもはっきりと覚えています。また、その復旧に協力してくださった沢山の住人さんたち。迷惑をかけてしまったのにも関わらず、素早い対応がとれたのは、皆さまのご理解があってこそだったと今でも思っています。
動き出してから工事完了までの一年間。ピカピカになった外壁や外構と、私に残ったのは大切な信頼と人脈とプライスレスなさまざまな財産でした。あれから数年。この春決まった副理事長は女性でした。間を取り持ってくれる人がいて、連絡先を交換し、あの頃を思い出しました。数年後に給排水関係の修繕が入るとのことで、その人は『準備が始まるのに何もわからずドキドキしています』と緊張気味でしたが。
『私もそうでした。でも大丈夫、皆さん協力してくださいますよ。自分たちの住まいのことですもの』 そう言うと、やっと彼女はほっとしたように笑ってくれました。
佳作
初夏の日の20分。
原田 邦昭 様 / 東京都大田区
その方とは、もうなかなかお会いすることはできません。それがちょっと残念です。
その方をはじめて見かけたのは、2018年の桜も散ろうかとするころでした。白髪で痩躯の管理人さんは背筋がピンと伸び、いつもキビキビ動かれていたのを記憶しています。
このマンションが建ち、私たち家族が住んで1年と少しの頃、管理人さんとしては2代目、いや3代目くらいだったと思いますが、その痩身で白髪の管理人さんになってから、このマンションの住み心地は、少しずつ変わっていきました。
例えば、このマンションのゴミ置き場は、それまで燃えるゴミの袋をどこに置けばよいのか、なかなかわかりづらく、大小のゴミ袋は住民の判断によって棚の上だったり、ポリバケツの中だったり、思い思いに捨てられていました。
しかし、この管理人さんになってから、小さなスーパーの袋に詰められたゴミ袋は、整然と並べられたポリバケツの中に捨てることがわかるように掲示がされ、しかもポリバケツの蓋の両端には、それぞれ「満杯」「空」のシールが貼られるようになりました。つまり、ポリバケツが満杯になれば、住民 は「空」の向きになっていた蓋の端が逆になるように返し「満杯」と表示されるようにすることで、他のポリバケツに捨てることが、次の住民にわかるようになっていたのです。
これは何か説明がなくてもすぐわかる、そして自分がちょっと良いことをしていると感じる、素晴らしいアイディアだと思いました。これでポリバケツに入らない大きな袋は棚の上に自然と置くようになり、ゴミ置き場は、ルールを庫内にべたべた貼るということなく、最低限のルールだけで整理され、きれいになっていきました。
その変化だけでなく、まちまちで動いていたロビーのエアコンの稼働時間が決められたり、掲示板上での案内文の書き方ひとつにしても、気遣いと「意図が伝わるような工夫」が感じられ、また、挨拶ひとつにしても、相手の顔を見て、ひと声添えていただくなど、日々、関心することが多く、この変化を生み出された管理人さんと一度、ゆっくりお話をしたい、と私は思うようになりました。
その方に休日の朝会えたのは、東京がすでに暑くなりはじめていた初夏のころだったと思います。
ゴミを出した後、掃除をされていたその方に会えた時、私から声をかけさせていただきました。ゴミ置き場のルールの件も含めて、最近、劇的に改善されたことについて、お礼を申し上げました。
その方は、私に向かって満面の笑みで応えていただき、「まぁ、良かったら少しお話でも」となり、花壇のふちに座り、身の上話となりました。
福井のT市のご出身で、お名前もその地名であること。元々は会社を経営されていたとのこと。そして、ゴミ置き場のこともお話してくれました。
「このマンションに来てすぐ、収集業者の人から聞いたんですよ、地域でも一番のゴミの量だと。でも、他と比べて、そこまで世帯数が多いマンションじゃないでしょう? なんとなく改善したくなって。いや、そこまで求められているわけじゃないんだけど、どうしてもね。でもルールを作って守らせようとしても絶対に上手くいかないんですよ。
会社もやっていたし、年の功でね、分かるんです。だから、自分自身で参加したくなるルールにしてみた。そうしたら自然とうまくいきましてね。いまではきちんと整理できた分、ゴミもコンパクトにできましてね。これは住んでいる皆さんの協力あってのこそですから、ありがたいですよ」。
当時、私自身の仕事は大変なプロジェクトを抱えており、メンバーが規則や期日を守れないことも少なからずあった。このお話は、まさに時機を得ていて、身に染みて「なるほど」と思えた。守らせるのではなく、自分で参加したくなるルールを。すぐにでも実行してみようと思える知見だった(実際、後日、私のプロジェクトは、なんとか成功に漕ぎつけることになる)。
「いまは引き継がれた書類を整理しているんですよ。中身がどうも『恨み節』が多くて、実務的じゃない(笑)次に引き継ぐ人が困らないような整理の仕方を考えていましてね。そうそう、ゴミ置き場の床も汚いでしょう?塗り替えてきれいにできないか、話をしているところなんです…」
この人は、まだまだ改善をしようとしているのか!
マンションが良くなってきた理由は、一つひとつの改善だけでなく、そうした前向きな取り組み姿勢が周りに与えるプラスの雰囲気も大きいのではないか、そう思えた。その日は20分ほど話して分かれたが、またお会いした時は、仕事で実際に教えていただいた発想を使った結果などをお話してみようかと思っていた。
そんな矢先、夏を迎えた頃、その方は異動なのか、マンションで見なくなった。私のマンションには新しい管理人さんが来られて、笑顔で対応してくれている。とても感じの良い方で、もちろん、今のマンション生活に満足している。
ただ、そんな今を作ってくれた、そして仕事の成功にも影響を与えてくれたその方に、一言で良いのでお礼が言いたい。それが叶えばと、こうして筆を取った。
本当にありがとうございました。私にとって大事な出会いでした。次の場でもきっと、何を改善しようかと、燃えていることでしょう。
ご活躍をお祈り申し上げます。