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グランプリ
マンション文庫「ポプラ文庫」ただいま8年目
横山 千尋 様 / 東京都杉並区
2011年 3月 17日。東日本大震災発生から6日後、私はいつものように文庫開室の準備をしていました。1冊1冊絵本を並べ、ふと気が付くと前回までは10人来るかどうかという状態に陥っていた文庫に次々と人が押し寄せていました。いつしかマルチルームは100人以上の人であふれかえり、こどもたちの声で満たされていました。
息子が 2 歳になったのを機に、我が家は世帯数800戸以上という大規模マンションに引っ越ししました。緑の多い立地が気に入り、迷わず購入したマンションですが、図書館や本屋にいくには少々遠く、かなりの意気込みが必要であることに気づいたのは引っ越ししてからでした。私は絵本が好きで、我が子への読み聞かせを欠かさず毎晩行っていたのですが、どうやって本を手に入れるか思案していたところ素敵な出会いがあり、老舗家庭文庫の一つ「ポプラ文庫」がマンションまで出張してくれることになりました。私と同年代の子どもを持つお母さんたちに声をかけたところ、お手伝いをしてくださる方が数人集まり、2009年 4月、マンション内「ポプラ文庫」がスタートしました。
マンションの共有棟には住民が多目的で使える部屋、マルチルームがあります。月1回第三木曜日3時、300冊を超える絵本や子供向け新書・文庫をポプラ文庫本部から車で搬出、マルチルームに搬入、閲覧及び貸し出しスペース、そして読み聞かせする場をセッティングしたら開室です。開室前から並んで待っていてくれる子もいます。3時15分から未就学児向けに、そして4時15分から小学生向けの読み聞かせを行います。5時には逆の手順で通常のマルチルームに原状復帰、絵本の搬出をして、閉室です。これを続け8年が過ぎました。
最初は試行錯誤の連続でした。まずは理事会に、マルチルームを利用して文庫やっていいか諮りました。反対はされませんでしたが、特別扱いはなく他の方と一緒にマルチルームの予約をしなければなりません。利用希望者が複数いた場合は抽選ですから、落選したら部屋が使えません。宣伝はどうするか、外部からお友達を呼びたい場合オートロックのエントランスからどのように入ってもらうか、参加費は?(運営している人はすべてボランティアで無償なので、部屋代、保険代、絵本の修理・管理費等にお金が必要でした)など1つ1つ問題を解決してきました。実際落選したことが今まで2回あります。そのうちの1回は、文庫の日だったことを偶然知った当選者がわざわざ私を探し出し、権利を譲って下さったのです。おかげで無事ポプラ文庫を開室することができました。
スタート当初の参加は有志ママ自身のこどもたちだけでしたが、徐々に口コミで人が集まり、1年後には登録者は80名を超えました。しかしながら、少しずつ保育園や幼稚園、習い事に通い始める子が増え、参加者は減っていき、やり方を変えようかと話していた矢先東日本大震災が発生したのです。。
あの頃のことはあまり細かいことは覚えていません。が、ポプラ文庫の日のことはよく覚えています。福島の原発が爆発してまだ6日、私達は、そして子供たちはどうなるのか?次の日、いえ1時間先のことさえ見通せない不安が渦を巻いていました。私は前日にメンバーに連絡をいれました。「明日のポプラ文庫中止のお知らせどうしますか?」すると思いもよらない答えが返ってきました。「やらないということは考えていませんでした」、皆口々に「とりあえずやってみましょう」「誰もこなかったらこなかったでいいじゃないですか」と言うのです。
3月17日のポプラ文庫は立錐の余地がないほどの人でうまりました。私が受付をしていると、一人のお母さんが私の手を握ってこう言いました。 「ポプラ文庫を開いてくださってありがとうございます。私が不安で毎日泣いていたから、子どもも笑わなくって、今日久しぶりにあの子の笑い声を聞きました。おうちに帰ったら借りた絵本を読んでねって言うんですよ。」。お母さんの目は少しうるんでいました。 また別のお母さんは、「この1週間大人と誰とも口をきいてませんでした。主人は会社が大変でほとんど帰ってきませんし。今日ここで皆さんと話ができてほっとしました。ありがとうございます。」と丁寧にお辞儀をされました。
部屋の隅では、少し年配の女性が赤ちゃんを抱えたお母さんに「なにか困ったことがあったら声をかけてね」と言っていました。 こどもたちは、幼稚園がお休みだからうちへ遊びにおいでよと誘い合っていました。 その時の読み聞かせは、いつもと変わらず“くまさん劇場”を皮切りに、わらべうた、昔ばなし、春の絵本だったと思います。こどもたちはちょっとした小話にここぞとばかりに笑いころげ、大人たちも一緒に声をあげました。 そして、その日は少しだけ閉室を延長して、みなさんがお話できる時間をのばしたのでした。
現在2017年、マンションのポプラ文庫は8年を過ぎ9年目へと向かっています。こどもたちの顔ぶれはほとんど入れ替わってしまいましたが、それでも赤ちゃんの時から知っている小学生の子たちが5、6人変わらず塾や習い事の合間を縫って来室し、マスコットのくまたちに話しかけたり、今日は10分なら聞いていけるんだと読み聞かせに参加したりします。やめてしまったベビータイムの復活を望む声もでてきました。大人の青空文庫の話も出始めました。理事会から理事会だよりに記事を掲載しませんか?とオファーをいただきました。やっと市民権をえられたようです。 私の子どもも大きくなり、そろそろ文庫も卒業となるでしょう。少し淋しく感じますが、それでも、次々と新しいこどもたちが文庫を訪れてくれます。マンション内なので、雨が降っても濡れずに文庫に来られます。少し大きくなればこどもたちだけでも参加可能です。いつの日か文庫を卒業したこどもたちが大人になり、自分の子どもを連れて来てくれるといいなあと思いながら、私は毎月第三木曜日のマルチルームの予約を取り続けているのです。
【講評】
子供たちへの絵本の読み聞かせや子供向け書籍の貸出しを、お住いのマンションの共用施設(多目的室)を利用し、「ポプラ文庫」として定期的に運営する中でのエピソードです。
スタート当初は有志とそのお子さんたちが参加するという、ごく限られたコミュニティでの活動であったものが、「読書」や「本」を媒介に、口コミを通じてマンション居住者ばかりではなく、近隣住民の方々も交えた地域コミュニティ形成の場へと発展し、マンション内外に広く認知された好事例といえるでしょう。
また、東日本大震災直後の「ポプラ文庫」は、不安を募らせたお母さんや子供たちの心の平穏を取り戻す場としての側面も覗かせます。非常時に気心の知れた人たちが寄り添いあえる「場」を創出するヒントとなり得る事例でもあります。
マンションの規模の大小、専用設備の必要性などを問わず、マンションの共用施設の有効活用という視点からも、マンションライフに関わる幾つかの示唆を与えているところが高評価のポイントとなりました。
準グランプリ
母の日
小西 和美 様 / 京都府京都市
雪がちらつく寒い日に可愛い赤ちゃんが産まれました。
不妊治療の果てに産まれたその子は私たち夫婦にとって待望の赤ちゃんでした。
私たち夫婦はこの子を大切に育てたいと心から思いました。か細い声で夜泣きし 1-2 時間するとまた起きてくる我が子が愛おしく思えました。
春を迎える頃、徐々に夜泣く声が大きくなってきていました。成長したことを喜ぶと同時にマンションはよく声が響くため近所の人の目が気になりだしました。 もしかして聞こえてるのではないか? 虐待してると思われていないか?
そんな心でいっぱいになり我が子が泣くたびになんで泣いているのかよりも近所に聞こえないように必死になっていきました。とある晩私は風邪をひきました。まだ続いていた夜の授乳がとても辛く、そんな日に限って夜頻繁に起きギャーと泣く我が子を見ながらなすすべもなくぼっーと見つめていました。 次の日も我が子はギャーと泣いていました。 洗濯物を取り入れるためベランダをあけっぱなしにしているとピンポーンと音がなりました。
ドアホンを見るとそこにはお隣さんがうつっていました。
「あー。きっとうるさかったんだ。夜もうるさかったもんな。」心臓がバクバク鳴っていましたが、心をきめてドアをあけました。
すると私に紙袋を差し出し、「初めての母の日おめでとう。」そう言いすぐに去っていかれました。私はパタンとドアが閉まると同時に紙袋の中を見ました。
息子へのファーストシューズのプレゼントと私と旦那2人分のケーキが入っていました。
「そっか、今日は母の日だったんだ。私、お母さんなんだ。」私はドアの前で泣き崩れました。
ご近所さんは私たち夫婦を応援してくださっている。 その日から私は顔をあげてマンション内を歩くようになりました。
すると皆さんお声をかけてくださり、大変だけど頑張ってね! 子育て世代で今度一緒にランチしましょ! と。
気付けばマンションの一階にある喫茶店でマンションの方々が仲良くお茶をしてお互いを励ましあっていたのです。
希薄になりがちなマンションの近所付き合いの時代に暖かい交流がある。心からこのマンションに住むことが出来て良かったなと思いました。
【講評】
ご夫婦に待望の赤ちゃんが誕生、愛情を注いで育児をする日々の中で、赤ちゃんの泣き声が近隣住戸に迷惑を掛けているのではという不安の芽生え。子育て経験のある方なら、少なからず身に覚えがあるかもしれません。時として孤立しがちな子育てママの不安を、お隣さんのちょっと粋な計らいが解消し、同じマンションに暮らす人たちが、実は温かい眼差しを自分たちに向けてくれているのだと実感する中で、自らも同じマンションに暮らす子育て世代のコミュニティ形成に関わり、その輪が次第に広がりを見せているということはもとより、子育てママの心情を察し、寄り添い、さりげなく手を差し延べることができる、そんな隣人の琴線に触れる立ち振舞いにマンション内のコミュニティ醸成の軌跡を見て取ることができたのも高い評価を受けるポイントとなりました。
マンションに暮らす子育てママに勇気と希望を与えるエピソードであり、子育て世代へのエールともいえるエピソードです。
特別賞
素敵なマンションとの出会い
清水 雅子 様 / 神奈川県横浜市
木々の緑、優しい木漏れ日、その中に咲く四季折々の花々、野鳥たちのさえずり、ホールへと続くこの小道、そこには季節の移ろいが感じられる森があります。桜咲く春、緑鮮やかな夏、森が赤や黄色に色づく秋、常緑樹が魅力的な冬、ここは私にとって心癒やされる大好きな場所です。いつかこの小道を、車椅子を押して支え合いながら、合唱練習にホールへと通う老夫婦、そんな日を夢見て、いつの間にか10年の月日が流れました。
「すごい!ミニコンサートが楽しめるマンションの売出しだ!」、「そんな素敵なマンションが本当に建つの?そこに住みたい!」 12年ほど前、ある日の夫婦の会話です。音楽に魅せられ、それが生き甲斐でもある私達は、長い年月共通の趣味である合唱を楽しんできましたが、どの合唱団も練習場所の確保に苦労しているのが現状です。そんな中、マンションの共用施設にグランドピアノ、防音設備付きのホールがある、それは何物にも勝る最大の魅力でした。入居前から「ホールから音楽の輪を広げよう!」を合言葉に仲間を募る方法を連日熱く語り合い、その想いは日に日に大きくなっていきました。
入居後は、住民による合唱サークルを立上げ、仲間と一緒に「クリスマスファミリ―コンサート」を開催し、小さな第一歩を踏み出したのです。あれから約10年、様々な問題、困難を乗り超え、活動を継続出来たのは、素晴らしいホールの存在、理事会等のご理解とご配慮、そして多くの方々のご支援とご協力があったからこそです。毎年コンサートでは、合唱、様々な種類の楽器、独唱、アンサンブル等の演奏を、住民と共に楽しみ、充実した貴重な1日を過ごしてきました。住民の希望者は誰でも演奏に参加出来る為、小さなお子さんから高齢者の方まで一緒に演奏する喜び、達成感も味わえるのです。又プロによる素晴らしい演奏には、惜しみない拍手が送られ、最後にホール一杯の皆様と「聖しこの夜」を歌い静かに幕を閉じます。
現在合唱団員は30名を超え、恒例となった「クリスマスファミリ―コンサート」の記念すべき第10回に向けて練習中ですが、ホールで仲間達と心を一つにして歌う時、ここに住む幸せをしみじみ感じます。しかし、ここ数年体調を崩してしまった私は、ふと、もうこのホールで歌えなくなるのではという一抹の寂しさが胸を過ることがあります。そして心身共に衰えた老後も歌い続けられる合唱団を、と夫婦でその基盤づくりに努力を重ねた10年の日々に思いを馳せるのです。
新しい街で初めてのマンション生活、不安や戸惑いもありましたが、「ホール」の存在で合唱仲間や友人達も出来、今では趣味を通じた交流で充実した楽しい日々を送っています。時には、見覚えの無い?方から突然「クリスマスコンサート、楽しみにしています」と声を掛けられ、嬉しい驚きをすることもあります。
このホールは「住む人と街のためのホール」のキャッチフレーズで有効活用されていますが、音楽活動が出来る希少な施設として周りからも注目されています。実際、この地域のマンションには、会議室や多目的ホール等はあっても、音楽のグループ活動が出来る場所は、残念ながら全くありません。その為にも街の皆さんと一緒に、「ホールから音楽の輪を」と活動を続けてきましたが、今後は高齢化した私共に代わって、団員の皆さんが協力して、更にその輪が広がっていくことを願っています。又、マンションの枠を超えた合唱団員の交流が、災害時にも地域全体で助け合えるネットワークづくりに繋がっていくのではと夢は膨らみます。
何よりこのホールの存在は、私達老夫婦に生き甲斐と夢のある楽しい生活をもたらしてくれました。この素敵なマンションとの出会いに心からの感謝の気持ちを込めて「有難う!」の言葉を伝えたいのです。
季節は夏、緑あふれる小道を歩きながら「より豊かな老後を。。。」と想いをめぐらすこの頃です。 終
【講評】
新築のマンションに偶々暮らすこととなった人たちが、高い志を持ってコミュニティ形成に乗り出したことへの評価が高かったエピソード。
マンション内のコミュニティ醸成の仕掛けとして居住者が立ち上げた小さな合唱サークルが、年々大きな輪となるのとともに、居住者の交流を活性化させ、マンションに設けられたグランドピアノ・防音設備付のホールで開催するクリスマスコンサートが恒例となり、音楽活動ができる希少な施設として地域からも注目され、マンションの共用施設が、地域コミュニティ形成の核となる可能性を秘めていることを示す事例でもあります。
特別賞
管理人さんに感謝を込めて。
五十嵐 由紀 様 / 京都府京都市
私達がこのマンションに来たのは平成元年のこと。父母が離婚し、母と私と双子の妹との3人で“新たな生活をスタートさせる場所”として選んだのが、同じタイミングで建てられたこのマンションだった。
女性だけの暮らしには漠然とした不安もあったが、そこは毎日遅くまで常駐してくださる管理人さんに予想以上にフォローをしてもらった。最初に出会った管理人さんは、訪問販売や不審人物などを見かけると、強い口調でマンションから出て行ってもらったり、車の出入りや立体駐車場の安全を常に見守っておられた。電球を捨てるのに「割る作業が怖い」と言えば代わりに割ってくれたり、なんと駐車場の出入り口のチェーンを誤って切断してしまった時には、注意するどころか「忙しそうやけど気をつけて」と、毎日慌しく過ごす私たちに優しい言葉をかけてくれた。
自分はできるだけ迷惑をかけないようにしようと思いつつも、マンションのことで困った時は迷わず相談し、いつしか父親に寄せる信頼感のようなものも感じるようになった。あれから約30年、その間には何人もの管理人さんにお世話になったが、そんなこともあって、退職される時のご挨拶にはいつも涙が溢れた。
そして今年、また新たな転機を迎えることとなったので、今までの管理人さんはもちろん、今とてもお世話になっている管理人さんに感謝を込めて、このコンクールに応募することにした。今から5年前、私達はすでに母とは別居していたが、仕事を引退したことと祖母の入退院をきっかけに少しずつ母の様子がおかしくなっていった。毎日何か探しものをしていたり、会わない時間は頻繁に電話をかけてきたり・・・
それでも「情緒不安定なのかな?」ぐらいにしか考えておらず、仕事が忙しいこともあり無関心に過ごしていた。そんな時、管理人さんが慎重に言葉を選びながら声をかけてくれた。「お母さんもしかしたら認知症じゃない?」と。よく聞くとその管理人さんのご両親も認知症だったので分かるということだった。すぐに病院に行くと「アルツハイマー型認知症」そう診断された。医学は進歩したといっても、アルツハイマーの進行を止める薬はなく、私たちは肩を落とした。
早めに発見・対応ができたお陰でしばらくは進行も緩やかで、周りの理解も得られて過ごしていたが、それでも季節の変わり目ごとに母の症状は進行していき、3年ほど前からは深刻な問題が次から次へと起こってきた。はじめの頃の徘徊は、散歩に行くと出かけたきり1時間ほど帰ってこなくなったり、エレベータを待つ少しの間に目を離しただけで姿が見えなくなって管理人さんと一緒に探し回ったりしたが、GPSを持たせることで対応できた。
しかし妄想や独り言が増え、ブツブツ言いながら徘徊したり夜中に大声を出したりするようになり、苦情がくるようになった。もちろんそんな時も私達をなるべく傷つけまいと管理人さんは慎重に言葉を選びながら伝えてくれ、アドバイスしてくれた。ついには行方不明となり捜索願を出す事態も起こり、私たちはやむなく自由に出入りできないように専用の鍵を玄関にも窓にもつけた。母を閉じ込めることに申し訳ない気持ちが募り、いっそ遠くへ引越しをしようかとも考え田舎道へ車を走らせた時もあったが、結局は同じ事になると思い考え直した。周囲へかけるご迷惑に恐縮しつつ、日々壊れていく母の姿を見ながら私たちの心も疲弊していったこの頃には、近所の方が立ち話をしている時や、管理人さんがこちらを見ただけで「また何か苦情を言われるのか」と身構えてしまっていた。でもそんな時ほど不思議に、自分達はよく知らない住人の方から「あなた達は大変やけど、お母さんは幸せやね。」と優しく声をかけてもらい、妹と2人、感謝の気持ちを忘れずにマンションに出入りすることができていた。介護生活もそれなりに落ち着いてきた矢先、今度は妹の乳ガンが発覚し、私達は打ちのめされてしまった。幸い早期発見ではあったものの、入院・手術が必要となり、実務的にも精神的にも母の面倒まではとてもみられなくなってしまった。早速“いずれは入所できるように”とお付き合いをしてきた施設に空きがないかも問い合わせたが、現状では難しいと言われ、そこからは毎日デイケアに預ってもらい、ショートステイなどもフルに活用した。
時間もお金も使い果たし、疲れ果てた姿でマンションを出入りしていたそんな時、管理人さんがありがたい情報を教えてくれた。その内容は、管理人さんの通勤途中に“建設中の特別養護老人ホーム”があり、近々多くの入所者を募集されるのではないか、というものだった。そして藁をも掴む思いで施設の方に相談し、この6月から入所できることとなった。入所してからこの3ヶ月は、新しい施設で手厚い介護が受けられ、マンションからも近いので毎日顔が見に行ける「安全・安心の暮らし」が母にも私達にも訪れた。管理業務はもちろん、通勤途中でさえ母を思ってくれたこと、介護経験者としてアドバイスをくださったことに感謝してもしきれない。そして今日から1週間のリフォームを経て、またこのマンションで妹と2人での新たな生活が始まる。私たちの暮らしを支えてくれた方、病気を見つけてくれた方、母をかばって見守ってくれた方、歴代の管理人さんへの感謝の気持ちとともにー。
【講評】
マンションライフで居住者の皆様と最も接点があるのが管理員さんではないでしょうか。居住者から頼りにされる存在ともいえるのでしょう。
登場する管理員さんは、日頃のコミュニケーションの中から、居住者の僅かな異変を見逃さず、自身の経験から認知症の疑いを家族に伝え、症状が悪化する中でも家族に適度な距離感で接し、認知症発症者とその家族の「安全で、安心な暮らし」を取り戻すきっかけを与えました。
マンションに住む認知症高齢者と、その家族へのアプローチについてのヒントを与えてくれるエピソードとして高く評価されました。
特別賞
今、思うこと ー 幼い頃の思い出とともに
大西 悠貴 様 / 兵庫県尼崎市
今から約20年前、私が小学校2年生の時のこと。朝目覚めると家の中のありとあらゆるものが飛び交い、激しい揺れと家族の悲鳴でパニックになった。忘れもしない神戸の阪神大震災。当時、私たち一家はJR駅前の14階立てマンションに住んでいた。少し落ち着くと兄の姿が見つからない。部屋を開けようとしても自力では開かず、父が体ごとぶつかって部屋の中が見えると、ピアノが倒れ、倒れたピアノと壁の隙間で兄が泣きながら助けを呼んでいた。あまり広くない家だったので一命を取り留めたことが奇跡だった。しかし本当の大変さはこのしばらく後だった。当時マンションは市から「半壊」認定。階段は14階から1階まで抜け落ち、外から見ても明らかに傾いていたが、市の認定は覆らなかった。そこで「管理組合」が急遽、定期集会を開き、今後の方針を決めることとなった。
その頃知り合いのいる明石に避難していた私たち一家は約1ヶ月に1度、「何もない」実家に帰り、会合に参加、私と兄は真っ暗な実家で待機していた。会合の話し合いは「全壊認定要求」、「建て直し」両派で意見が真っ二つに割れ、一向に結論が出ないまま毎月明石からの「里帰り」が日常になった。本音を言うと当時小学校3年生に上がっていた私はその里帰りがとても苦痛だった。
神戸に戻ると、実家には何もなく真っ暗でやることもないし、帰りはいつも家路が11時とかになっていたのに加え、何より亡くなった友人や友人の家族のことを思い出してしまうからだった。
すぐ近くに母校はあるのに今日また最終列車で明石に帰らないといけない切なさもあった。そんな時にいつも側で楽しませてくれたのが兄だった。兄もクラスメートを震災で亡くしたので同じ思いがあっただろうし、「こんな時に住民どうしでもめてどうするんだ」ということも言っていた。しかし私とは明かりひとつない部屋で一緒にコンビニおにぎりを食べたり、新しい学校でのことを話したり、家族の冗談を言ったり、本当にたわいもない時間をともにしてくれた。「暗闇では人の声ってこんなにストレートに心に響くんだな」と子どもながらに静寂の中で感じた感覚を今でも覚えている。結局、話し合いは「全壊認定」でまとまり、市も承認、ひとまず「里帰り」は終わったが、一度できた住民間の溝はうまらず、人間関係を理由に出て行く住民が相次ぎ、私たち一家もついに念願の母校にはほんの少ししか復帰できず転校となった。未曾有の天災で市民が一致団結している中、マンション内では紛争が起こり、「大人の都合」で私たち兄弟は振り回された。
多感な時期に中学校を転校した兄はその後、中学、高校、といじめにもあった。兄の塞ぎこむ姿を見る度、あのことさえなければ・・と思うことも昔はあった。
でも今は違う。兄弟そろって30代を迎えた今思う。兄を救ってくれたのはあのマンション、あのピアノ。音大こそ目指しながら挫折したものの、今でも楽譜を見ずに演奏できる絶対音感の持ち主だ。結婚して子どももできた。ちなみに父も今、実はとあるマンションの管理人の仕事をしている。震災時の経験があったからか、非常に住民思いで、住民ともよい信頼関係が築け、仕事が「楽しい」らしい。複雑な人間関係が絡み合い、苦労の耐えない「マンション」という場所を父は決して嫌いになんてなってなかったのだ。
それが私は嬉しかった。うまく言えないが、誇りにも思う。マンションには色々な人が住んでいる。性別・年齢・考え方・挨拶・ごみの捨て方、本当に千差万別だと父は言う。
本当はみんなが理解し合い、協力し合わないといけない場面もある。有事の際は特にそうだ。ましてや、子どもを巻き込んではいけない。それは皆頭では分かっていること。しかし現実は綺麗ごとだけでは住まないのが共同生活であり、ひいては社会そのものである。
個人的には震災を機に済んでいた「マンション」に助けられ、兄とのかけがえのない時間を過ごし、また逆に辛い思いもした。色々な思い出が詰まった場所。近年は近所トラブルやごみのマナーなども問題になっているが、そういう時こそお互いの理解や管理人とのコミュニケーションなど、「心のつながり」が大切なのではないだろうか。決して物理的に一体になっているのがマンションではなく、気持ちの面でつながってこそよいマンション、よい居住空間、そう言えるのではないだろうか。色々なことを経験してきたからこそこうした言葉に重みがある、と考えるのはおそらく自負だろうが、ある意味マンションというのは一つの時代や社会を映す「無数の窓」であることは間違いないと私は常々考えるのである。
【講評】
阪神淡路大震災で被災した当時のマンションでの暮らしを振り返る中から、近年のマンションライフで取り沙汰されるいくつかの問題を重ね合わせ、居住者間のコミュニケーション、居住者と管理員とのコミュニケーションの重要性を再認識させられるエピソード。
マンション再建に向けた話し合いの中で生じた埋めようのない住民間の心の溝を目の当たりにし、マンションにおけるコミュニティ形成、平時はもとより有事の際の共助の視点を持つことの必要性を訴えたところもに高い評価が集まりました。
また、当時の辛い思いを糧とし、現在、お父様がマンションの管理員としてお仕事をされているというのも何かの縁を感じさせるエピソードです。
佳作
小学生・声かけ見送り活動
森 一夫 様 / 三重県四日市市
私達夫婦の住む三重県四日市市のマンション・「ライオンズシテイ四日市」は、高層15階建て、84世帯、200人以上が、住んでいます。近鉄・四日市駅まで、徒歩10分以内。買い物・文化・医療・交通・セキュリティー・環境・景観、全てに優れていて、「都心部のマンション生活」を11階部分で、謳歌しています。定年退職と共に入居。10年が過ぎました。
入居して驚いたのは、1階エントランスにある「入居者氏名ボード」に、名前を表示している方が、9軒だけ。これだと、お互いの名前が、わかません。「プライバシーの守秘」なのでしょうね。「隣りは、何をする人ぞ」、です。私達夫婦は、ある決意をしました。それは、「元気に・相手に聴こえるように・笑顔で・声に親しみを込めて、挨拶をすること」です。続けて来ました。
そのうちに、段々、顔見知りになり、気軽に挨拶をするようになり、中には、名刺交換するまでに至った方も出てきました。健康保持に、朝7時から、30分間のウオーキングを日課にしています。お陰で快適です。終えて、マンションに帰って来ますと、1階のエントランスホールには、集団登校前の小学生が、三々五々、待機しています。通学班が4班に分かれていて、揃った班から出発します。揃うまでの約10分間位が、私達夫婦にとって、小学生との楽しい対話の時間です。夫婦で話し合い、「小学生・声かけ見送り活動」、と命名しました。
誰から命じられた訳ではなく、頼まれた訳でもなし、全く、私達夫婦のボランテア活動、「私設応援団」のようなものです。話していますと、純粋な真っすぐな気持ちに接して、心が清まります。「おはようございます」挨拶をしますと、元気な挨拶が返ってきます。毎朝、様々な話題で、大笑いです。満遍なく皆の顔をみること・名前を呼んで上げること・名前の知らない子がいたら、聴くこと・一人だけと長く話さないこと・ニコニコ笑顔で元気よく話すこと・前向きな楽しい話をすること。腰をかがめて、目線を合わせて、挨拶します。
ある朝のこと。持っていたメモ紙に、シャーペンで書きながら~、私「木、一字では?木だね。では、木をニ字では?」。◯◯ちゃん「林」。当たり(^.^)。「三字では、なんという字でしょうか?」。△△君「森」。よくできました(^.^)スゴいね、△△君。国語も、良く出来るね。「森は、おじさんの名前だよ」。「そうか、分かった」と、いう訳でした。
5人の小学3年生と、話しました。「明日は、社会見学に行くんです」。私「どんな所に行くのかな?」。「山手の水沢(すいざわ)地区で、お茶の栽培を観ます」。私「へえ、いいなあ。ところで、社会科で習ったでしょうが、三重県のお茶の生産高は、全国で、第何位ですか?」。「はい、3位です」。私「Aちゃん、良く覚えていたね」。私「では、2位は、何県ですか?」。B君が手を上げて「鹿児島県」。私「ピ~ンポン、当たり。では、1位は何県ですか?」。Cちゃん「静岡県です」。私「当たり。皆、良く勉強していますねえ。感心感心。水沢の後は、どこに行くのかな?」。「四日市港にあるポートビルに行きます」。私「良く観て来て下さい。後で、感想を教えて下さいね」。
期せずして、社会科の勉強会になりました。Sちゃんは、小学校2年生の女の子。明るい笑顔で、はきはきとした、利発な子です。
私「新学期が始まったね。3年生だ」。Sちゃん「私3年生に、なりたくないなあ」。私「どうして?」。Sちゃん「だって私ね。今でも、ちびなんだ。前から一番目なの。3年生になったら、1年生に間違われるかもしれない。それが嫌なの」。私「ごはんは、よく食べているんでしょう?大丈夫だよ、身長も伸びてくるよ」。Sちゃん「でもね、うちのお父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、どちらかというと、ちびでしょう。私、似たかもしれないのよ。このことは、誰にも黙っていてね」。お陰で、子供達の名前を覚え、お母さん、更に、お父さんまでも知り、会話を楽しむようになりました。
「A君の◯◯が、素敵です。褒めてあげて下さい」と、親御さんに話します。喜ばれます。SG様のご主人と、エレベーターで、一緒になりました。ご主人「長女が就職、次女が大学入学。まだまだ、教育費が、かかります」。私「お嬢さん二人とも、小学生時代から知っています。素敵なお嬢さんに成長されましたね。家庭内教育が、よろしんでしょう。二人に会うたびに、親孝行してね、と、声を掛けています」。ご主人「親が言えないことを、森さんに言ってもらい、有難いです」。
「すれ違う人」から、「挨拶を交わす人」になり、更に、「挨拶に、プラスワンの言葉を交わす人」になリます。何気ない挨拶が、人間関係の距離が縮まり、胸襟を開いて話し合う仲にまで発展しますから、マンション生活は、楽しいです。
佳作
見守りをありがとう
勝又 照行 様 / 宮城県仙台市
長く闘病をしており、自分の死期を悟っていた母は、それまで家のことを何ひとつやってこなかった父に、味噌汁とカレーライスとミートソースの作り方を教えた。そして、子供たちには子供たちの人生があるのだから、迷惑を掛けないように、との遺言を残して亡くなった。
もともと明るい性格の父は、母のいない独り暮らしがはじまっても、私たちに泣き事を言うでもなく、困らせることもなく自宅マンションでひっそりと暮らしていた。
私も弟も、勤め人としてはアブラの乗った時期で、ある程度の責務も背負いながら忙しい日々を過ごしていた。頭の片隅で父のことを心配しながらも、連絡がないのは元気な証拠だろうと自分に言い聞かせていた。時々、実家に顔を出すと、手作りのミートソースを自慢げにふるまってくれたりした。マンションの避難訓練に参加したとか、皆で一斉清掃をしたとか、ちゃんと社会とコミュニケーションをとっているのだなと安心したものだった。
そんな時、あの東日本大震災が起こった。前代未聞の強く長い地震だった。私が勤務する新築のオフィス2階でもこれだけの惨状だ。父はどうなっただろう、あの高台に建つマンションの14階にいたのでは、ひとたまりもなかったのではないか。大きな本棚の下敷きにでもなってやしないか・・・。
弟とはすぐに連絡が取れたが、肝心の父とは音信不通のままだった。電話がまったく通じず、電波状況の悪い中、夕方、なんと父からメールが届いた。「マンションの人達と一緒に避難しています。無事です。」父はメールが打てない、ということは、きっと一緒に避難している方々が気を遣ってくださったに違いない。新築のマンションに引っ越してきた30年ほど前、父はまだ40代と若かった。今ではすっかり周囲の方々に支えていただく側になったようだ。
炊き出しでも、買い物でもマンションにお住まいの人達に相当お世話になった。また、近所のスーパーなどで働いているマンションの方達も、父を見かけると声をかけてくれたりした。私たちが知らない間に、父はすっかりこの自治会に馴染んでおり、本当によくしてもらった。
震災を生き延びたのに、その年の夏に母と同じ病気がみつかり、たった1ヶ月で父は逝ってしまった。父は、体に異変を感じて自分でタクシーを呼び、「病院に行ってきます」というメモを書いて玄関のドアに貼っていた。私たち宛てではない、誰か近所の人が様子を見に来たときに、不在を伝えるために書いたものだった。その家に一度も戻ることなく、父は病院で亡くなった。
父の入院中、私が病院と実家とスーパーとを行き来する中、近所の方にお会いすると「最近、お父さん見ないわね、どうしたの?」と気遣ってくださることが多く、父は本当に周囲の方々に見守られていたのだなと感じた。8月にはマンションで夏祭りが開催されたのだろう。家の机の上に父の字で「おにぎり、おでん」と記入された、お祭り用の食事注文書がそのままになっていた。母が亡くなってから6年間、よく独りで頑張ってきたな、と涙が出た。しかし、マンションの隣近所の方々がたくさん弔問に訪れ、こんなに沢山のお付き合いがあったのかと私と弟は本当にびっくりした。
独りでも、本当の意味で一人ではなかった父の終盤の人生に安堵した。父もこのマンションを選んで、ほんとうに良かったと思っているだろう。
佳作
管理人さんと息子
数見 恵子 様 / 東京都国立市
我が家は3人家族。小学生の一人息子は毎朝「行ってきます!」と大きな声で学校へ出かけていきます。東京でも比較的自然の多いこの辺りは、駅前からちょっと離れると意外にも子供達が虫取りや川遊びなど昔から変わらない遊びができるような環境です。息子は人並みに今時のゲームもやりますが、特に低学年の頃は毎日のようにお友達と約束してきては外で走り回って遊んでいました。田舎育ちの自分の子供時代と東京で暮らす現代の子どもとのあまりのギャップに日々戸惑うことばかりですが、「お友達と元気に外で遊ぶ」という共通項を見つけられるからでしょうか。親としてはホッとする光景です。
うちのマンションは築年数も10年を超えました。駅前にあるので規模は大きくなく、共有施設が充実しているわけでもなく、イベントもそれほどありません。ちょっと離れれば自然が多くあるものの、マンション周辺には子供たちが遊べるような公園もありません。けれどもマンション内には気持ちのよい方が多く、長年住まれている方も多いので住人同士お互い挨拶や世間話もよくします。エレベーターが一基だけのせいか、ほとんど顔見知りでそれほど不安のない暮らしができていると思います。マンションには2人の管理人さんが交代で勤務しています。いろいろと誠実に対応してくださり、とても頼りになるお二人です。一年を通して、私たちの周りに起こる様々な小さな出来事を一緒に経験してくれる、もはや家族のような存在になっているような気がします。
春にはツバメの巣の見張り番、夏には飛び込んできたクワガタやカブトムシを子供たちに持ってきてくれたり、秋や冬には果物をおすそ分けに頂いたり、台風や大雨、大雪の際の対応など、本当にいろんな場面でお世話になっています。また、きっとこのお二人とも子供好きなのでしょう、気軽に子供たちにも声をかけてくださいます。挨拶はもちろん、子供たちもいろんな出来事を管理人さんたちに話しているようです。私が知らなかった話をご存知だったりして驚くこともあります。
普段の子供の様子を見ていてくださるからでしょうか、時に息子の性格や行動までも気にかけてくださり、働く私たち親にとっても、祖父母が近くにいない息子にとっても、とてもありがたい存在となっています。息子が「こんにちはー」「ただいまー」など、気持ちのいい挨拶ができるのは、やはり日頃から気にかけ声をかけ、挨拶に答えてくれる管理人さんや、また周りの住人のみなさんがいるからだと思っています。
数年前の冬のある日のことです。関東にも年に1度か2度雪が降ります。大抵は積もりませんが、中には降り続き雪が積もってしまうこともあります。マンションの周りや裏にある駐車場にも雪が積もり、そんな時には管理人さんたちも雪かきが本当に大変そうです。そんな雪が降った日の翌日のこと。息子が学校から帰ってきたとたん、 「雪かきしてくる!!」とランドセルを置いて飛び出していきました。マンションのお友達と一緒に帰ってきて、雪かきをしている管理人さんに声をかけたところ、「手伝って」と言われたとのこと。私は逆にご迷惑になるんじゃないかと「あんまり邪魔しないようにね!」と言いましたが、聞こえているのかいないのか、あっという間に行ってしまいました。
小一時間ほどして、キラキラと輝いた顔をして戻ってきた息子。「いやー、雪かきしてきたよ!大変だったよ」といっちょまえの報告があり、さらには管理人さんにジュースをおごってもらったというではありませんか。がんばってくれたからとお礼に頂いたそうです。私自身は雪が降る地方に育ち、雪かきは日常でしたが、息子はそのような経験も初めて。毎年毎年嫌になるほど雪を見てきて、雪かきをやれと言われるのが何より嫌だった私からするとありえないことですが、息子にとってはこの経験がとても良いものだったようです。なぜなら、それ以降毎年雪の季節になると「雪積もらないかなあー、また雪かきしたいんだよねー。」というようになったからです。もちろんジュースも目当ての一つなのでしょうが、雪かきも本当に楽しかったんでしょうね。雪で遊ぶだけではなく「雪かき」という生活の中での雪との関わりを、迷惑がらず経験させてくれた管理人さん。息子がせめて少しでも役立ってくれたのならいいのですが、実際にはそんなことはありえないだろうということも、雪かきを大変さを知っている私にはわかるのです。雪をたいして知らない子供が、初めてやった雪かきを効率よくやれるはずがないのですから。それなのに作業の合間に、子供たちにもやらせてくださり、さらにご褒美までくれた管理人さんの気持ちがとても嬉しく感じました。
子供たちと管理人さんとのこんなちょっとした関わりの場面が、日常のそこここにみられます。そんな「周りの信頼できる大人との関わり」がこのマンションには存在します。子供が育つ環境の中で、必ず必要とされるものの中にはないかもしれない。親が子供に与えたいものの中にも挙げられることがないかもしれない。昔には普通にあって、それこそそれが日常で存在することすら気づかなかったようなもの。なくてもそれほど支障がないと思っているもの。実際には本当に支障はないかもしれません。だけどもしあったら。もしあったなら、意外と子供への影響は小さくないと感じています。「周りの信頼できる大人との関わり」は、子供たちにとって「安心できる環境」に他なりません。身内以外の身近な大人が関わりを持ってくれる環境、見守り、受け入れてくれる環境。子供たちが安心を感じられる環境。それは決して当たり前ではないのです。特に今時の首都圏の駅近辺の、どちらかというと大人に便利な立地、造りになっているこのマンションでは。さらにマンションの管理人さんとこのような関係を作れることも、きっと当たり前ではないのでしょう。こんな環境はとても貴重で、大切なありがたいものだと実感している今日この頃です。
佳作
小さなヒーローたち
杉野 文代 様 / 兵庫県神戸市
私達夫婦が住む分譲マンションは、都会の真ん中に立地し総戸数は100戸、やがて築20年になろうとしている。阪神淡路大震災で全壊して再建された住宅の一つで、数軒が一般売り出しされた際、利便性が気に入って購入し、今期は理事に選任された。
都市型マンションの例にもれず、賃貸住宅の割合が年々増加傾向にあり、入居当初3分の1程度だった賃貸者が、最近は半数を超える勢いである。それに伴って見知らぬ人を見掛ける事が増え、エレベーター内で出会っても挨拶すら交わさ無い状況が生じてきている。都会のマンションの特徴として匿名性の高さがあり、他の住人との煩わしい関わりを持ちたくないと思って入居する人がいる事は否定できない。しかし、顔を合わせているにも関わらず挨拶の言葉も無いと言うのは、同じマンションに住まう者としては寂しく感じ、古くからの住人の中には居住者同士の繋がりの希薄さから災害時の対応などを危惧する声も聞かれた。以前は餅つきや花見などの行事で親睦を図っていたらしい。とあるマンションで挨拶をやめる規約の成立がニュースになるご時世、今さら「皆さん挨拶しましょう」と声高に唱える事も出来ず、住民間のコミュニケーション不足に理事の一人として頭を悩ます日々であった。
そんなある日、R君とNちゃんの兄妹が大活躍をしてくれたのである。歌が得意なR君は5歳で、誰とでも物おじしないで挨拶をする幼稚園児、4歳になったばかりのおしゃまなNちゃんは兄と同じ幼稚園に通っており、お兄ちゃん大好きっ子である。笑顔の2人を見ていると、孫がいない私でもついつい話しかけたくなるような可愛さがあり、その日もエレベーター内で他愛のない話しをしていた。エレベーターには、私達の他に明らかに賃貸の方と思われる夫婦も乗り合わせていたが、無言のままであった。その時、R君が夫婦に向かって「こんにちは」と、声をかけ、「あのね、幼稚園の先生はいつでも元気に挨拶しましょうって、言うんだよ」と、言ったのである。母親はあわてて夫婦に「うちの子がやかましくて、すみません」と謝っていた。Nちゃんは傍らで、嬉しそうに「お兄ちゃんすごい」というような眼差しを兄に向けていた。誰にでもニコニコしながら話しかけるR君にとっては、黙ったままの人達が不思議に思えたのであろう。彼の言葉に促されて、夫婦が小声で「こんにちは」と返答をしたのを聞き、R君は笑顔で母親を見ながら満足そうな表情を浮かべていた。それ以降、彼は益々張り切って挨拶をするようになり、話しかける人の輪も拡大し、そこにNちゃんも加わっていった。小さなヒーローたちに触発されたかのように、住人同士も挨拶を交わすようになり、今では乗り合わせたエレベーター内で無言のまま過ごす事は少なくなった。
このマンションの周囲に幼稚園はなく、小学校も歩いて15分近くかかるためか、子供連れは殆ど見掛けない。住人に高齢者が多くなってきている今、R君とNちゃんの兄妹の存在は珍しく、皆がマンション中の子供であるかのように2人の成長を見守っているようだ。今日もR君とNちゃんが管理人や清掃員さん達と交わす元気な声が聞こえてくる。仲良し兄妹が幼稚園へお出かけする時間らしい。あどけない笑顔と可愛い挨拶で、大人たちが出来なかった難題に風穴を明けてくれた2人のお手柄により、このマンションも少し明るい雰囲気になったように感じるのは、私だけであろうか。
佳作
お守りのカード
芝野 久恵 様 / 大阪府堺市
後期高齢者で足腰も弱くなった両親が、終の棲家と選んでファミリータイプのマンションに引っ越したのはおよそ6年前のことです。管理が行き届いていて、窓から眺める景色もとても素敵で、快適で心地良い環境だと喜んでおりました。父は活動的で、「どんどん歳を取るとお役に立てなくなるから」と自治会にも率先して参加するくらい元気だったのですが、3年前に急逝。それからというもの母はすっかり落ち込んでしまいました。
私は別所帯を持っていて、平日はフルタイムで仕事。なかなか母との時間が取れません。週末には実家であるマンションに顔を出して、母の話し相手になったり、買い物や掃除のサポートをしていましたが、少しづつ母の様子が変化してきました。認知症状が出始めたのです。
感情的になったり、被害妄想が激しくなったり、他人と関わることを拒絶するようになりました。私は週末のサポートに加え、平日仕事を休んでは母を病院に連れていったり、役所へ行ったりと、駆けずり回るような毎日を過ごすようになりました。
あるときちょっとした事件が起こりました。私が玄関ドアを開けようとすると、U字ロックが掛かっていて入れない状態。室内にいる母にインターホンで呼びかけても、電話を掛けても出てくれません。「もしや中で倒れていたら…」と不安な気持ちが押し寄せてきます。ご近所迷惑とは思いつつ、人命に関わることかもしれないと意を決し、玄関ドアを何度もノック、大声で母を呼ぶことを繰り返しました。ノックする手も痺れてきた頃、のそのそと母が玄関口に現れました。「あぁ、良かった~」普通ならここで話は終わるのですが、そこは認知症の母のこと。母の安全が判明してホッとするのも束の間。母にU字ロックを外して、とお願いすると、母曰く「U字ロックの外し方が判らない」と。
次々に襲いかかる試練ですが、ここで気を落としていても何も始まりません。気を取り直して、玄関ドア越しに母にU字ロックの外し方を説明しますが、一筋縄にはいきません。何度も何度も平易な表現で母に伝えていきます。母が何度も聞き直すので、恐らく声のボリュームも大きくなっていたでしょう。試行錯誤の末、一時間後にようやく母がU字ロックを外すことができました。
そんな認知症の母と私の遣り取りを、幼稚園帰りの隣の親子が見ていたようです。私が母の身の回りのサポートをしていると、インターホンが鳴りました。隣の部屋の奥さんだ、ひょっとしたらさっきの騒動でご迷惑だったよね。謝らないと…と恐る恐る玄関を開けました。すると、隣の奥さんは笑顔で、「お忙しいところすみません。これ受け取ってください」と名刺サイズのカードを手渡してくれました。見れば携帯番号が。「私も遠く離れた実家に母一人暮らしています。元気に過ごしているようだけど、やはり高齢なので心配なんですよ。でね、もしお母さんのことが心配なときで急に駆けつけることができない時ってあるじゃないですか。電話しても出なかったりね。そういう時、カードに書いてある私の携帯に電話してください。すぐ隣だから声を掛けやすいし、元気かどうか判れば安心だし。お気軽にね。」とその奥さんは言ってくださいました。
私は感激のあまり、どんな感謝の言葉を返したか忘れるくらいでした。私は介護というゴールの見えない迷路に入り込んで、疲れ果てていました。そのカードの存在は、そんな私に差し込んだ一筋の光です。今のところ、U字ロックの件のようなことも起らず、幸いお隣の奥さんに電話して母の安否を確認してもらう事態には至っていませんが、そのカードは私と母のお守りになっています。
佳作
防災会 あの時
梅崎 薫 様 / 千葉県千葉市
「皆さんはどこにいらしたのですか?」私の問いかけに、3人の妙齢のご婦人は、恥ずかしそうに「スポーツジムです。」と言った後、堰を切ったように話し始めた。「私と○○ちゃんはプールサイドに座ってたんです。突然、建物が激しく揺れて、プールの水が大きく波打って、ね」「そう、怖くて抱き合っていたのよね。」「本当にビックリした」「指導員さんが『落ち着いて。大丈夫。避難できるよう準備して』とか言ってるんだけど、怖くて動けないのよ。」「△△ちゃんはシャワールームに居て…」「言わなくていいわよ」「そうね、バスタオル1枚でね」「もう」「ごめん、どうやって、どこに避難するのよ」「ねぇ~」。聞いていた約100名の住民から「ん~」とか「うわ~」「裸か~」などの声が漏れ、このご婦人方のその時の恐怖を共有したようであった。
6年前、3.11東日本大震災から9日目に開催した住民集会の体験談の一つである。今後の防災活動をより現実に近いものに成長させていこうと、震災直後の幹事会で打ち合わせて開催された住民集会。事前にアンケートを取っていたので、この三人の話は貴重な体験として、是非、お話していただこうと決めていた。
その他、アンケートの設問は『その時、どこに居ましたか』『最初に何をしましたか』(省略)『今後、あなたの家ではどんな準備が必要と考えますか』など。今後の対策として「家具転倒防止」「レンジやポット等の固定」「書籍の落下防止」を考える人が多かったことを報告した。
また、一人の若いお母さんの行動が報告された。総会とかその他会合にはほとんど参加されないお宅だけど、地震直後、子供を背負って同じ階段のお宅すべてに「お怪我はありませんか、火は消しましたか?」と尋ねて回っていた、と。会合に参加しないから住民意識が低いとか防災意識がないとか、そういう批判は適当ではない、と。
感動秘話であった。集会もそろそろ終盤に差し掛かった。当時、マンション防災という言葉が出始めたころで、我がマンションの防災会も「避難所は我が家」というキャッチフレーズでいろいろな準備を始めていた。大規模災害時は集会所も避難所・対策本部とするのではあるが、避難所訓練はひとまずおいて、防災会の直近の課題として、自宅の家具転倒防止を中心に進めていくことを語って閉会へ進む予定であった。
その時、一人の女性が立ち上がり話し始めた。ご意見番的存在で少しうるさがられている方である。「今日はいろいろ勉強させてもらってありがとう。一つ質問というか、クレームがあるんだけど。あの日、なぜ避難所を開設しなかったのか、…」。周囲の男性の顔は『始まった』という表情。『コホン』と咳払いするおじいちゃん。「私は猫と二人暮らし。どんだけ怖かったか。解りますか。揺れるたびにキャーキャー言っていたのに、誰も来てくれないし、災害時は集会所に避難所開設というから来てみたって誰もいないし、小学校の体育館も閉まってるし、どういうつもりですか。」相当心細かったのであろう、熱い勢いを感じる話し方である。
しかし、この話がその後の防災活動の方向性を大きく変えることになった。翌月の防災幹事会では、早速“心のケア”は大事だ、という話がでてきた。また、バリアフリーの問題やいつも会合に参加できないお宅へのアプローチをどうするか、等々を議論。さらに翌月の防災幹事会で車椅子の通行、担架輸送などを実験。敷地内の自転車、オートバイの通行規制のためのポールなど障害が多く、利用しにくい状況であることが判明。
また、その翌月の防災訓練は、全員参加を目指した。無事なお宅は窓の内側に黄色い紙を貼ってもらうことにし、これを外側から確認することで無事・安全を判定する。この説明のために全戸を回ることで全員参加とすることにした。各戸それぞれ事情もあるので、民生委員にお手伝い頂き、ほぼ全戸参加の防災訓練を実施することができた。
そして8月には、いよいよ宿泊訓練。隣の公園にトラロープで梁を作り、大きなブルーシートを掛けて男性50人位が横になれるスペースを作ってみた。一方、女性陣は集会所の畳の部屋等にやはり30人以上が毛布を持ち込んでの宿泊訓練となった。覗いてみると例のご意見番はじめ皆さんで盛大にお茶だのお菓子だのを持ち込み、どこが防災訓練だと言いたくなるような、徹夜の盛大な“井戸端会議”となっていた。
初めての宿泊訓練、まあ、良いか。で、翌早朝からの炊き出し訓練は、ほぼキャンプファイヤーの乗り。遠い昔の青春時代に戻ってしまったような賑やかさであった。中心メンバー70代、若手が60代。50代以下はパシリである。この時から6年がたった。防災会の中心メンバーはまだ、ほぼ変わらない。一人を大切にする伝統は続いているようだが、時代、とりまく環境は変わってきた。一度、“あの日”の原点を振り返る企画を考えようかと思っている。
佳作
いなくなった管理人さん
三浦 美千子 様 / 東京都江東区
住み始めてから10年以上経つ。引っ越したころにお世話になった管理人さんは笑顔が可愛らしいおじいさん。天井が高くて電気を取り付けられないと相談したら、大きな脚立を抱えてやってきてくれた。毎朝決まった時間に行われるゴミ置き場の清掃、階段や廊下、ロビーなど公共スペースの掃除、庭に植えられた植物への水やり。掃除しながら私たちに「いってらっしゃい!」の挨拶、子供たちが学校から戻る時間帯には、管理人室から出て笑顔で「おかえり!」と声を掛けていました。いつも笑顔で、住民のちょっとした声にも耳を傾けてくれる管理人さん。心休まることはあるのかしら、、と思っていたある日、管理人室の窓から見える顔が別の人になっていた。
旅行に行った際には必ず管理人さんへのお土産を購入し、「いつもありがとうございます。」のメッセージを添えて窓口にそっと置いておく、そうすると郵便ボックスに、「美味しく頂きました。いつも温かいお心遣いをありがとうございます。」と書かれたカードが一枚。もうこうしたやり取りはなくなってしまうのかと寂しさを感じていたある日、郵便受けに切手の貼られていない、宛先の記載もない手紙が一通。
そこには、「お世話になりました。これまで何かとお心を砕いて頂いて、私は本当に嬉しかったです。どうもありがとうございました。」と書かれていた。管理人のおじいさんは心身疲れ軽度の鬱を発症してしまったのだそうだ。そんな中、わざわざ手紙をご自身の足で届けて下さったのだ。
私たち住人は、何かにつけつい管理人さん頼りで行動してしまうところがある。住人にとってはたった一つのお願いも、管理人さんには何十世帯、時には100を超える世帯からのお願い事。人はお互いさまで生きているのに、私たちは時々そうした当然のことを忘れて相手に大きな負担を掛けてしまうことがある。優しいから叶えてくれるだろう、いてくれて当たり前、そうした私たちの傲慢な思い込みで管理人さんの心をすり減らし彼らの大切な職を失わせぬよう、住人のみならず管理人や管理会社のご担当者を含めた「他者」への配慮を、集合住宅に住む私たちは今一度考えるべきなのかもしれない。
佳作
夢と感動のマンション大規模修繕工事
市川 展 様 / 大阪府大阪市
私の住むマンションは、今年で42年目を迎える190戸のマンションです。私は2016年5月15日から2017年6月5日まで、第41期の管理組合理事長に就任し、就任した理事会で3度目の大規模修繕工事を実施することになりました。
当マンションは全世帯の約3分の1が高齢者の一人暮らしです。実は私自身も77歳という年齢で理事長を引き受けたのですが、建物の老朽化と住人の高齢化「二つの老い」という課題に取り組まなければなりませんでした。
「住人の皆様に、今よりももっときれいな環境で、快適なマンションライフを送っていただけますように」という思いで、大規模修繕工事に取り組みました。
3度目の大規模修繕工事ともなりますと老朽化が進み、至るところに腐食・損傷の激しい部分が見受けられました。業者の工事は11月から始まる予定でしたが、私は理事長に就任した5月から活動を開始しました。
手始めに高圧洗浄機を購入し、管理員さんの協力も得ながら、駐輪場・駐車場・ゴミ置き場・敷地内の通路など、汚れがこびりついている床面や苔の生えている床面をすみずみまできれいにしました。大規模修繕工事が始まる前に自分たちでできる部分は自分たちでしようということで取り組んだのですが、作業したことにより、思ってもいなかった発見がいくつもありました。
例えば、駐輪禁止の場所を高圧洗浄機できれいに洗い、新しいコーンを設置したところ、今まで違法駐輪であふれていた場所に、自転車が1台も駐輪されなくなりました。
また、高圧洗浄機で排水溝を清掃すると、モルタルが割れていたために水が流れず、割れた溝の底に穴が開き、水が流れ込む状態でした。その影響で地盤沈下になることもわかりましたので、後日、大規模修繕工事の際に提案して、補修していただきました。
今まで気がつかない所も見つけることができ、住人の方からは、「よく見つけてくださった」とお褒めの言葉もいただきました。また、「すみずみまでよく見てくださる」と信頼していただくこともできました。
駐輪場以外にも、様々な改善策を提案しました。例えば、バルコニーは当初ウレタン塗膜防水の工事計画でしたが、「塩ビシート貼り」に変更して施工しました。
ほかにも屋上が洗濯干場になっていたのですが、使用している方は5~6人で、ごく一部分しか使用していなかったため、使用している部分だけをきれいに塗装して残し、それ以外の物干し用のスペースの鉄柱を撤去しました。
その結果、広場ができたので、屋上でお茶を飲んだりできる憩いの場に利用したり、コミュニティーの場になりました。また、エレベーターは塗装が剥がれている部分が多々あり、上塗りの繰り返しで何度塗装してもすぐに剥がれる状態でしたが、今回は塗装でなく「シート貼り」にし、剥がれない工事をしました。
さらに、受水槽の壁面に雨垂れの汚れがあり、雨垂れで苔が生えていました。飲料用の受水槽なので清潔感を保つため、受水槽の壁面の苔を防止する水切りを取り付けました。
色々と私なりに創意工夫をし、業者に提案するなどして工事に携わってきて、だんだんときれいになっていくマンションを見た住人さんから、「次はどこが美しくなるのか」と話されている声が聞こえてきたのです。とても励みになり、さらにやり甲斐を感じるようになって、以前にも増して全力で頑張るようになりました。
そのようななか、私が一番感動をおぼえ、今回のことを投稿しようと思ったきっかけになるできごとがありました。
ある日、管理員さんから電話があり、「理事長に会いたい人がいるが、本日の夕方には東京に帰られるので、午前中に会ってほしい」とのことで、3人で会うことになりました。
お会いすると、「マンションをきれいにしていただいて、ありがとうございます」と終始、お礼を言われました。その方は昨年暮れに東京に転勤された方で、たまたま法事で6月に帰って来られたところ、自分の住むマンションが見違えるように美しくなっていたので、感謝の気持ちを理事長に伝えたかったということでした。
その方日く「竜宮城に来たみたいだ」と。壁や天井、エレベーターに至るまで目につくところすべてがきれいになっている。バルコニーは水がスムーズに流れ、少し掃くだけできれいになる。きれいになったバルコニーでお茶でも飲みながら、太陽をいっぱい浴びると、とても清々しい気持ちになれる等々…、うれしい言葉をたくさんいただきました。
こんなに喜んでくださる方がいたことで、大規模修繕工事は大変でしたが、理事長として住人の方に夢と感動を与えることができ、工事に関われて非常に良かったと思えました。
2017年6月4日の通常総会で若い世代の理事長に交替したのですが、任期中に取り上げていた「玄関扉の取り替え」が可決され、引き継いだ理事長が工事を進めてくださることになりました。住人の方々がいつ頃になるのかと今から楽しみにしておられますが、私も一住人として今からとても楽しみです。
建物の老朽化と住人の高齢化の「二つの老い」という問題を抱えてスタートした工事でしたが、建物自体も若返り、私自身も10歳20歳若返った気がしています。
佳作
本を集める
浦田 芳子 様 / 東京都東大和市
感動的でも、心温まる話でもないので、今回のコンテストの趣意にそわないかも知れませんが、私たちがマンション内で続けている地味な活動について知っていただければと思います。
11年前に入居してまもなくゴミ置き場に捨てられている数冊の児童書が目につきました。ハードカバーの立派な本でもったいないと思いましたが捨ててあるものを持って帰るわけにはゆきません。
新築同時入居で仲好くなった人たちと相談して、捨てるのではなく寄付してもらい、誰でも読めるように棚に並べたらどうかということになりました。791戸の大規模マンションで共用施設が多いために出来たことかも知れません。
理事会から多目的スペースに棚を置く許可と、本棚の費用を出してもらって二つの棚から始めました。
本が集まるか、心配だったのですが、杞憂でした。
「ご不要になった本をいれて下さい」と書かれた箱には順調に本が集まり10年のうちには本棚を12まで増やすことが出来ました。
特に、管理はしておらず、貸出と返却のノートを置いているだけですが、先日、調べてみたところ寄付図書数は約1万2千、2万回近い利用があり、常時2千冊くらいの本が並んでいます。
新刊書は買わず、あくまでも寄付されたものという方針ですが、驚くほど幅広いジャンルの、古典の名作から今話題になっているものまで提供されています。
中でも子供向きの絵本、児童書は有効に活用されているようです。
小学校の推薦図書が、この図書コーナーにあってよかったという声も。
このスペースでもゲームをする子供が多いのですが「ちょっと図書室へ寄ってゆこう」と言っているのを聞いたりすると嬉しくなります。
中古物件が売り出されたとき「図書室あり」と書かれていたので「セールスポイントになってる!」と笑い合いました。この多目的スペースが、図書室と呼ばれることもあります。
現在、9名の本好き図書部員が月2回整理にあたっています。
以前からあるものを処分する前に「お持ち帰りコーナー」に並べて、お好きな本があればどうぞ。また利用者のご意見を聞いて「新着コーナー」を設けたり、と工夫を重ねています。
紙の書籍の好きな方は今も多いようです。
寄付する人はまた利用する人であり、すべてマンション内の居住者という安心感があります。
ささやかな活動ですが、マンションライフを少しでも豊かにする一助になればと願っております。