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グランプリ
グランプリ
あるマンション理事会の情景
梶原 洪三郎 様 / 千葉県千葉市
「はい、もうわかりましたよ、佐藤さん。今日は議案がたくさんありますから、その辺で発言を止めてもらえませんか。」もう、20分も一人で喋りまくる老理事に、さすがに理事長もしびれを切らしていました。今期の理事に選任された佐藤さんは築四十年になるこのマンションの竣工当時からの居住者です。実は、この佐藤さん、第一期の理事長を務めた人でした。その後は8年毎に輪番で理事になりましたが、今回、久々に順番が回ってきて大いに意気込んでいます。しかし、八十才を超えても身体は丈夫なのですが、数年前に奥さまを亡くしてから徐々に認知症の症状が現れるようになりました。最近、佐藤さんはマンション内を真夜中に徘徊したり、大声や騒音を出すなどの迷惑行為をするようになり、これまでも再三問題になっておりました。先日開催された管理組合の定期総会では、輪番制とはいえ認知症の佐藤さんを理事に選任することに反対意見が出て少々紛糾しましたが、結局、この件は理事会に一任ということで、なんとか納まりました。早速開かれた理事会で賛否が議論されましたが、やはり、反対意見が大勢を占めていました。
ところが、その時、ひとりの理事の発言で形勢が一変します。女性理事の鈴木さんが、認知症についてゆっくりと語り始めたのです。「認知症は、他人ごとではありません。誰にでも起こりうることなのです。認知症の人を排除するのではなく、共に歩むことが大切です。認知症の人たちと、どのように向かい会えば良いのか皆さんに是非知っていただきたいのです。」 鈴木理事は厚生労働省が推進する、地域で暮らす認知症の人やその家族を応援する“認知症サポーター”を養成する講師役のキャラバン・メイトでした。鈴木さんは話を続けます。「ところで理事の皆さん、認知症サポーターになっていただけませんか。実は、このマンションの居住者の方々にも参加いただいて、認知症サポーターを養成する講習会が開ければいいなあと思っていたのです。現在、全国で700万人を超えるサポーターが活躍しているのですよ。認知症を正しく理解して、みんなが安心して暮らせるコミュニティーを作りませんか!」
その後も鈴木さんの熱のこもった話に理事の皆さんは耳を傾け、早速、理事会主催の認知症サポーター養成講座を開催することになりました。後日、無事に講習会が済み、参加者はサポーターの証しであるオレンジ色のリングを貰って、このマンションにも晴れて二十数名の認知症サポーターが誕生しました。そして、懸案の佐藤さんは理事としてあたたかく迎えられることになったのです。
認知症の人には、優しく、寛容に対応することの大切さが講習会で説明されました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。理事に迎えられた佐藤さんも、なかなか一筋縄ではいきません。話し出すと止まりません。まさに傍若無人な話しぶりで、亡くなった奥さまとの恋愛話から始まり、時には、マンション管理についての薀蓄にも及びます。曰く、「理事というものは、このマンションの隅から隅まで知らなきゃいかんのだ。月に一度集まるくらいで何が理事だ。ワシが理事長をやっていた頃はマンション中を、毎日、見回って歩いたもんだ。理事はもっと行動しなきゃいかん!」
現在の佐藤さんが夜中に徘徊することとの関連は定かではありませんが、認知症と高齢者特有のわがままが重なって、状況判断が薄れ、話の脈絡もかなり乱れますが、時折、はっとするような指摘もあるのです。
理事たちは、認知症サポートと理事会運営のバランスに苦労しながら、今期の理事会活動も半年が過ぎました。
丁度、今期第7回の理事会が開かれていた10月初め、夕方のことです。突然、このマンションに住む若い母親らしき女性が集会室に駆け込んできました。「うちの息子が急にいなくなったんです。一緒に探してください。どうか、お願いします!」 子供は5才で、先ほどまで母親と一緒にいたそうです。理事たちは一斉に立ち上がり、手分けをしてマンション中を走り回りました。初秋の夕暮れは早く、もう外はすっかり薄暗くなっていました。子供の名を叫ぶ母親の悲痛な声を聞きながら、思わず、最近の痛ましい事件のニュースが理事たちの脳裏を掠めます。早くも半時ほどの時間が過ぎ、母親はもちろん理事たちにも焦りの色が見えます。「警察を呼びませんか!」誰かが携帯電話を取り出します。理事たちは最善の対応を相談するため、一旦、集会室に戻ることにしました。
重苦しい空気の中、ひとり集会室に残っていたあの老理事の佐藤さんが、突然ぽつりと、つぶやきました。 「屋上、見たかい」 理事たちはぎょっとして互いの顔を見合わせると、脱兎のようにエレベータに走りました。数分後、屋上に上がると、暗闇の中、エレベータ機械室の入り口にぽつんと男の子がしゃがみ込んでいました。この築40年の古い建物は屋上への立ち入り防止対策が不十分で、老朽化した仕切り柵の隙間を小さい子供なら容易に通り抜けられたのです。
子供を連れた母親が目に涙を浮かべながら、何度も何度もお礼を言って帰って行きました。理事たちは安堵しながらも、これからの理事会活動のあり方、コミュニティーのあり方について、改めて、大きな課題を重く胸に受け止めました。
【講評】
皆様の身近にも認知症高齢者の方がいるかもわかりませんが、その方々との関わり方について、深く考えさせられるエピソードでした。認知症発症者の急増、今後、日本社会全体の不可避の課題です。この認知症高齢者の方との関わり方について、マンションという一つのコミュニティがどう関わっていくか。このマンション管理組合では、理事会を円滑に運営するには、認知症発症の理事を排除することも考えましたが、ある理事の方の発言により、皆さんが前向きに認知症という症状を理解しようと行動し、排除するのではなく、誰にでも起こりうることを受け入れ、そして寄り添っていこうという、まさにこれからの課題に対し、マンションのコミュニティ力の無限さが垣間見られました。
認知症が発症しても、周りの方々に支えられ、安心して長く住める環境をマンションは整えることができる、ということを例示する、今の日本社会に必要な認知症発症者と寄り添うコミュニティの醸成事例として高評価となりました。
準グランプリ
がんばれ!ゆきちゃん!生きて!~そしてその善意の輪は世界に~
成田 耕一 様 / 神奈川県藤沢市
平成21年の春先、まだ肌寒さが残る神奈川県横浜市関内にあるマンションにご主人の転勤により、一組の若いカップルがマンション3階の304号室に引っ越して来ました。
ご主人は都内のIT企業に勤務するスポーツマンで明朗快活を絵に描いたような誰にでも気軽に挨拶をする好青年、若奥様は性格も明るくスレンダーで身長が高くこちらも誰とでも仲良くできるタイプで二人がいれば、その場が和むというか〝パッと雰囲気が明るくなる“ナイスカップルで、マンション中の人たちと仲良くなるにはそう時間はかかりませんでした。
この夫婦には一人娘の〝由紀子ちゃん“という当時4歳になる愛くるしく可愛らしい可憐なという表現がピッタリの女の子がおり、4月からの幼稚園入園を楽しみにしていました。しかし、女の子の表情はどこか暗く見方によってはその顔が少々黒ずんで浮腫んでいるようにみえました。
3月の末のある日、私たち夫婦はエレベーターの前で偶然その若夫婦に会い挨拶を交わしましたが、お子さんの姿が見えないので、私の妻がお子様は保育園ですか?と尋ねると意外な応えが返ってきました。幼稚園への入園を楽しみにしていたが、心臓の具合が悪く都内の循環器専門病院に入院しているとのこと。話しを聴くとその容態は相当悪そうだったので、私がこのマンションの管理組合の理事で医療関係に詳しいのを知ると、是非相談したいことがあるので、時間を取ってもらえないかと若夫婦から懇願され、夫婦の必死さが伝わってきましたので、4階の自宅に招き私たち夫婦でお話しを伺いました。私は、医療マネジメントの資格があり、医療法人やドクターマーケットにも詳しく、ファイナンシャルプランナー(CFP)の資格もあるため医療費が家計にかかる負担額を計算出来ます。
若夫婦が先ずご主人からとつとつと話し出しました。時折涙を見せながら、しばらくすると、言葉が詰まり、今度は奥さんがつづけました。奥さんも涙を一杯ためています。
由紀子ちゃんには先天的な心臓の異常があり、それに2歳の時、難病である〝拡張型心筋症“を発症し、合併症により今のままだと余命は1年と主治医から宣告されているそうで、若夫婦の相談に私たち夫婦は言葉も出なかったのをよく覚えています。
若夫婦は涙ながらに治療方法が〝心臓移植“しかなく、移植には3億円近くの医療費がかかるが、自分たちは関西出身なので首都圏には知り合いが少なく、途方にくれている様子でした。私たち夫婦で善後策を話し合い、管理組合全理事に相談しました。
一つはこの年再び回ってきた管理組合の副理事長の立場から6月の定例理事会の後、若夫婦に出席を求めお子さんの病状と治療方法が米国での移植しか選択肢がないことなどを説明してもらい理事会が音頭をとり、全会一致で〝ゆきちゃん支援の会“が結成され任意での参加と募金の呼びかけをマンション全住民に行いました。若夫婦は理事役員全員に涙ながらに感謝の握手を交わし理事会は今後の出来る限りの支援を約束しました。
二つ目は公民館に若夫婦に来てもらい同様に病状と治療方法を説明してもらい、事前に町内会役員に理事会で説明をし、町内自治会に〝ゆきちゃん支援の会“へ任意での参加と募金を呼びかけました。
三つ目は私が所属する地区のロータリークラブから紹介を受け、横浜地区のロータリークラブの社会奉仕委員会から多額の支援金と横浜駅や関内駅での街頭募金活動を二人一組で6ヵ月に渡り展開してくれ、億単位を集めてくれました。
四つ目は各臓器の移植手術を主な活動とするNPO法人も協力してくれ、やはりロータリークラブから紹介を受け三つのNPO法人と地元ライオンズクラブ、横浜倫理法人会なども募金活動に協力してくれました。こうして支援の輪は次々に広がり地元の日産自動車や傘下のJ1、横浜Fマリノス等も多額の募金に応じてくれました。
わすか半年で目標額の3億円を集めることができ、翌年1月ゆきちゃんは無事ご両親と渡米し米国で心臓移植手術を受け、帰国することが出来ました。そして、現在も元気に小学校に通っています。
マンションの住人、町内で見せるゆきちゃんの愛くるしい笑顔と大きな声でのあいさつを見るたびに、本当にこの子が助かってよかったと両親の方、マンション住人、町内会の皆さんと一緒に喜んでいます。地域住民を中心とする最初は小さな支援の輪が大きな輪になり、一つの小さな生命を助けることが出来ました。
今回一つのマンションの管理組合というコミュニティから発信された善意の輪は、その後大きな波となり、当時米国でも使われるような臓器移植に関する一大サイトとなり、現在ではそれがさらに発展し、〝I had Cancer“というサイトとともに、現在30万人が会員となり常時、25万人は使用しています。
【講評】
私情の話と言っても、特に家族の病気の話については、他人には相談しづらいものです。かといって、引っ越してき新しい地で、身寄りもない中、誰かに相談できるあてもない、そんな折、エレベーターの中で交わされる居住者同士の挨拶は、マンションならではのコミュニティ形成でもあります。今回、その挨拶から生まれたコミュニティが、マンションの管理組合という居住者全員参加でより良い環境を目指し、話し合い、実践するプラットホームを通し、一人の居住者の病気に対し、マンション全体の問題と捉え、地域に広がり、募金活動へとつながった、まさにマンション力が活かされたところが高評価となりました。
マンションの輪が、〝ゆきちゃん“を救ったと言っても過言ではありません。今後、こうした輪を、マンションがフロンティアとなって形成し、一つの課題を社会全体で解決していくという発展的なコミュニティのヒントになる作品でした。
特別賞(地域のWa賞)
マンション養蜂『仙川みつばちプロジェクト』ができるまで
児島 秀樹 様 / 東京都調布市
これは、住民が庭で蜜蜂を育て、マンション住民・近隣住民と一緒にその恵みを味わうという話です。始まりは2年前の6月、ここから始まります。
『自分の街のことを何も知らない!』 調布市仙川という街に住み始めて10年。会社生活とマンション内の人間関係だけで過ごしてきた私は、自分の住む街のことを全く知らない事実に愕然としました。マンション管理組合はひとつの町内会のようなもので、そこの人間関係だけで完結してしまうとその周りの地域との繋がりは生まれないのです。気に入って住み始めた街なのに、何かしなければ、このあと10年20年経ってもこのまま時間だけ過ぎていくだけです。 そんな焦りがありましたが、何をすればいいのか分かりません。ちょうど駅前のマンションということもあり、駅前の様子を観察していました。すると、街にゴミが多いことに気づきました。こんなゴミだらけの街に住んでいたのかという驚きとともに、ゴミ拾いなら自分でもできるなと考えて、翌日の朝から出社前にゴミ拾いをするようになりました。 6月末から3ヶ月ほど一人で行っていましたが、マンション住民にもこの街の状況を説明し、協力を仰ぎます。そして、マンションの住民も一緒にゴミ拾いをしてくれるようになりました。私は毎朝続けることにしました。すると、街のことがよく分かるようなりました。そして、また新たな気づきがありました。「街に花がない」ということです。
一方で、そのころマンション管理組合でも植栽に関する問題が発生していました。 私たちのマンションは、建設当初から、四季折々の草花を愉しむことができるナチュラルガーデンを維持管理してきました。ガーデナーの方が熱心に丁寧にメンテナンスをしているお陰で、とても心地よく癒しの庭に成長していました。 ところが、理事会から植栽費用を減額するようにとの圧力が掛かりました。決して、管理組合全体の総意ではないもののコスト圧縮の名のもとに植栽会社へ度々の減額要請が入ります。結果として、植栽会社との関係が悪化して契約解除の話が持ち上がるまでになってしまいました。このままではまずいと思い「理事会が植栽の良し悪しを判断するのではなく別組織を立ち上げ、その組織が植栽会社との話を進めるのがよいのではないか」と理事会に提案します。植栽費用を減額することが管理組合の総意ではなく、このマンションの価値である庭の緑を維持することを最優先に考えたいということを伝え、理事会にも快諾してもらい 『緑化クラブ』が発足します。理事会とガーデナーとの間に入り、連絡・相談・交渉はすべて緑化クラブで行います。また、住民自身が植栽管理に参加することにより、趣味のガーデニングとしてスキルアップにつながるとともに、日々の生活の中で潤いとリラックスを生み、参加者同士のコミュニケーションの場となりました。住民によるサポートが入ることにより、植栽メンテナンス作業も捗ります。住民の満足度も向上し、マンションに欠かせないクラブとなりました。
こうして、マンション内に出来上がった『緑化クラブ』ですが、そのメンバーが今度は街の緑化を一緒にやってくれることになりました。マンション敷地内のナチュラルガーデンから株分けした草花を公園や駅前にも移植して、ナチュラルガーデンが街に広がっていく取り組みを始めます。
ふと、私たちの植えた公園の花に飛んできた蜜蜂が目に留まります。あっそうだ、蜜蜂を飼ってみんなで蜂蜜食べたらどんなに楽しいだろうか?一年掛かりで情報収集を行い、巣箱設置場所をマンションのゴミ置場倉庫の屋上緑化された場所に選定。マンション住民及び近隣住民へも相談を開始。平成28年1月にマンション管理総会での正式な承認を経て、蜜蜂の巣箱を敷地内に設置することになり、4月から『仙川みつばちプロジェクト』がスタートしました。
仙川の街の花へ蜜蜂たちが毎日飛んでいきます。一ヶ月後の平成28年5月、採蜜ができるまでに蜜が溜まりました。マンション住民や地域住民に声を掛け、蜂蜜パーティー(採蜜会)を開催しました。これがきっかけとなり、地域の人との繋がりがどんどん生まれるようになりました。
平成28年8月7日には、子供向けイベントとして「仙川みつばちの学校(巣箱見学、蜜源探し、みつばちの生態講義)」をマンション住民と一緒に開催。地域の子どもたち15名とその保護者に参加しただき蜜蜂と人の楽しい暮らしを感じてもらい、自分たちの住む街やその自然の在り方を考えることができました。気づいたら、私だけでなく多くのマンション住民も街に出て、ゴミ拾い、緑化活動、蜜蜂飼育など街で活躍するようになっていたのです。マンションが街に開かれ、繋がっていることを感じました。どこのマンションでもできる訳ではありませんが、住民の思いが集まれば、このようなことも可能になるのではないかと思います。(ただし、住民の理解を元に安全最優先で進めることが重要です)
現在、この活動を通して、この街に住んでいることの実感を持てるようになり、大変充実した毎日を送っています。このマンションに住んだからこその暮らしが実現できたのです。これからもマンション住民、そして地域の皆様とのご理解とご協力を頂きながら、この活動を継続していきたいと思います。 ブログ「グッドモーニング仙川!プロジェクト」 http://ameblo.jp/gmsengawa/ ※『仙川みつばちプロジェクト』は、グッドモーニング仙川!プロジェクトの3つの活動のひとつです。
【講評】
一人の活動がマンション全体へと広がり、延いては地域の活動へと広がる、マンションが地域の核となり、地域全体へと発展した、まさにコミュニティの醸成事例。マンションという閉ざされたコミュニティから、地域社会とどう共生していくか、どうコミュニティを育んでいくか、その答えのヒントなる活動であり、まさに人と人との繋がりから生まれたエピソードでした。
マンション内で生まれた活動が、地域へと発展し、街づくりにつながっていく好事例であり、社会が共有できる観点も高評価となりました。
特別賞(見守りのWa賞)
不審な来訪者
伊藤 都 様 / 東京都品川区
私は、あるマンションでフロントマネージャーをしております。 入居者さまや来訪者さまと接する機会が多く、人と人とのコミュニケーションを大切にお声掛けや目配りを 心がけております。
その頃 私はある入居者さまの変化を感じておりました。 ある入居者さまとは、ご高齢でお一人暮らしのご婦人のことです。ご婦人は毎日プールへと通い、そのお姿はお元気そのものでした。そしていつの日からかご婦人は体調を崩されたご様子で次第にご自宅に閉じこもるようになられました。お見かけする日が少なくなり、何かお役に立てる事はないだろうか..。そう気にかけていた頃、私はある事実を知りました。
その事実とは、ノンタッチキーの使い方が解らずエントランスからマンション内に入れずお困りになっている場面を入居者さまが数回見かけている..というものでした。この頃からご婦人が軽度の認知症を患っておられた事を私は知りました。
程なくして、この事件が起こったのです。 黒いスーツに剃りの入ったヘアスタイル..独特な雰囲気を持つ男性が来訪されました。違和感を覚えた私は、即座に来訪者名簿にご記入頂くようお願いしました。訪問先を確認したところ偶然にもそのご婦人宅への来客でした。入館から数時間..かなりの時間が経っているにも関わらず退館される気配がない..。そう気にかけていた矢先、ご婦人宅に滞在中であるはずの男性とご婦人が二人揃ってご帰宅されたのです。
このマンションにはエントランスの他に一ヶ所の出口があります。恐らくご婦人とその男性は、その出口から外出されたのでしょう。しかし今まで殆ど外出されなくなったご婦人がバックだけを抱えて帰宅された様子から男性への不信感が一気に高まりました。まさかご婦人を銀行に同行させ、不正に現金を引き出させたのではないのか?そんな最悪な事態が私の頭を過りました。 超高齢化社会とも呼ばれる日本で高齢者をターゲットにした詐欺事件が後を絶たず銀行での振込規制も厳しくなった今、最悪の事態も十分考え得る世の中です。ご婦人が認知症を患っていることを知っているのであれば更に事態は深刻です。数分後ご婦人宅から男性が足早に退館しようとするところで私は勇気を出して声を掛けました。「お差し支えなければ御社はどんな業種の会社ですか?」私の問いかけに「不動産会社です」この時の 表情や口調から益々不審に思い、すかさず出た言葉は「不動産会社でしたら今後何か関係する事があるかもしれないので、お名刺頂戴出来ますか?」と男性は不機嫌そうに名刺を差し出し、そそくさと退館して行きました。私は、ご婦人の事が心配で取り越し苦労であって欲しいと願いつつ急いで行政の担当者に今日の出来事や私の感じた事を通報しました。
ご婦人の認知症は軽度とはいえ数時間前の事を忘れてしまう事もあるご様子。 今日の出来事がご婦人の記憶に残っている内に担当者からご訪問頂きお困りの事はないか早急に確認して頂きたいとお願いしたのです。
しかし私が懸念していた最悪な事態は起こってしまっていたのです。ご婦人は男性から架空の投資話に全く疑っていない様子で、しかも驚くべき事にご婦人の口座から数千万という莫大な預貯金が引き出されたにも関わらず手元には契約書や領収書さえもない状態だったそうです。
その後 行政.弁護士.警察の連携によりご婦人の大切な財産を取り返す事が出来た事を知り、私は胸を撫で下ろしました。唯一解決の手がかりとなった物が、あの時男性から受け取った名刺と行政への早期通報だったと行政の方から感謝の御言葉を掛けて頂きました。 強い憤りを覚える出来事に複雑な気持ちでしたが、普段からの取り組みが入居者さまのお役に立てた事は素直に嬉しく感謝の御言葉を有り難く頂戴しました。
孤立しがちな高齢者をマンションというコミュニティの中でどうお守りするかを考えた時に、まず脳裏に浮かぶのは、おひとりお一人との繋がりに重きを置く事だと思います。何気ない日々のお声掛けを積み重ねる事により安全や財産をお守りする一つの要素になる事を学びました。 同時にマンション内に留まらず地域や行政といった広義でのコミュニケーションも日頃から大切にする事が入居者さまのお役に立つ事も実感しました。
その後のご婦人ですが、いくらか体調が回復されたご様子です。 これから先 ご婦人にとって一番幸せな道が選択される事を切に願っております。
【講評】
昨今、高齢者への振り込め詐欺は社会問題にもなっております。当事者たるご高齢者とこれを取り巻く周囲との日ごろからのコミュニケ―ションがいかに大事か、だからこその異変に気付き、対応がとれる。その重要なポジションの一角を占める管理員さんの気づきと日頃からのマンション居住者との信頼に基づく関係性こそが、マンションならではの見守りにつながり、高齢者が安心・安全に暮らすことができる好事例。
また、早期逮捕につながった要因として、日頃からの行政や警察との連携がいかに重要かもについても思い知らされたことが高評価となりました。
特別賞(家族のWa賞)
僕とばーちゃんの二人暮らし
玉野 鼓太郎 様 / 東京都渋谷区
「あんた、ばーちゃんと一緒に住んだってくれるか?」 母からのこの言葉をきっかけに 約10年間に及ぶ 僕とばーちゃんの2人暮らしが始まった。 僕は、中2から 社会人になるまで ずっとばーちゃんと2人暮らしをしていた。 この言葉だけ聞くと 「中2から、両親と離れ離れに住んでいたのね、大変ね」と思われるが 実は、そういう訳ではない。
親は、同じマンションの5階に住んでいた。 僕とばーちゃんは7階。 ご飯など食べる時は 5階で父、母、弟、ばーちゃんで食べる。 それ以外は、ほとんど7階で生活。 普通の「一軒家」なら「2世帯住宅」と呼ぶのだろうが うちは「マンション」だったので 同じマンションで階違いの「ふしぎな2世帯生活」というところだろうか。
きっかけは、祖父の死だ。 僕の母が、1人になる祖母を気にしていたところ うちのマンションの2階上の7階がちょうど売りに出され タイミングよく、そこに引っ越す事になった。 さらに、1人だと 急に倒れたりした時に心配だという母の気遣いで 長男の僕に「ばーちゃんと一緒に住んでくれないか」と言ってきた。
最初、僕はほんの少し寂しい気持ちもあったが、 弟とは別の「自分の大きい部屋」を持てるという喜びの方が大きかった。 しかし、中2という思春期の僕にとっては嫌な事ばかりだった。 僕が彼女を連れてくると 孫を心配したばーちゃんが、謎に和菓子を持ってよく部屋に入ってきた。 しかも、和菓子だ。中2の女の子は和菓子なんて食べない。 さらに、ばーちゃんは、耳が遠いので テレビを爆音で見ている。 受験勉強の邪魔だとケンカになったこともある。 物を捨てられないばーちゃんの部屋は とにかく散らかっている。 怒りながら掃除は毎回僕が行う。 いろんな事で本当によくケンカする毎日だった。
そんな中、事件が起きた。 12月の寒い日だった。 僕はその日、ストーブをつけたまま、就寝。 すると、寝相が悪い僕が蹴った布団の端がストーブの中に入り 燃え始めた。 異常な息苦しさで目覚めた僕。 目の前は、白煙だらけ。 すぐに「ばーちゃん!!」と叫んだ。 すると、僕の扉の前までばーちゃんが走ってきた。 扉を開けると火と煙が飛び出してくる。 ばーちゃんは、すぐに携帯で消防局と5階の家族に連絡。 気を失いかけていた僕を 5階から飛んできた父と弟が抱えて救出してくれた。 ばーちゃんは、母が支えて救出。 家族みんなで、無数の濡れタオルを用意して 消防車が来る前に何とか鎮火。事なきを得た。 母は、祖父に何かあったらと思って同じマンションにした配慮のおかげで 僕の命は救われた。 仮にこれが、隣の棟のマンションだっただけでも 僕の命はきっと無かっただろう。
そんな「迷惑」を家族にかけてしまった僕だが その5年後、 さらに大きな「迷惑」を家族にかけてしまった3年間があった。 それは、就職浪人をした3年間だ。 ちょうど僕が就職活動を始めた年に リーマンショックが起き「就職氷河期」と呼ばれる時代に突入。 受けては落ち、受けては落ちの繰り返し。 手応えがあったな!と採用試験の最後まで進むも 最終面接で落とされる毎日。 5階の実家で結果を報告した後、 7階へ帰ってまた報告。 そんな苦しい日々が続いた。 「そうかそうか、何でやろうなぁ、、、 こんな頑張ってる真面目な子やのに、、、 何で会社はわかってくれへんねやろか、、、」 ばーちゃんは、そう言って肩を落とす僕を励ましてくれた。
ちょうど就職活動3年目の時に 母親からこんな事実を知らされた。 「ばーちゃん、あんたに「面接時間」をよく聞くやろ? あれ何でか知ってる? その面接時間中、ずっと死んだじーちゃんの仏壇の前でお祈りしてるねん どうか受かりますように!って」 僕は、自然に涙がグッとこみ上げてきた。 5階の家族にも7階のばーちゃんにもみんなに迷惑をかけていた。 と改めて痛感した瞬間だった。
3年目にようやく、一番行きたかった企業の面接が 何とか最終面接まで到達した。 いわゆる圧迫面接というやつだ。 10人ほどずらっと並ぶ役員たちにガチガチ緊張している僕。 張り詰める空気の中、社長がこんな質問をした。 「就職浪人3年もしている君が、ここまで進んだ理由は何だと思うか?」 そこで、僕はこう答えた。 「僕は、マンションでばーちゃんと2人暮らしをしています。 そのばーちゃんが、僕が面接している間中ずっと、仏壇の前に正座して お祈りをしてくれています。そのお祈りの「効果」がようやく効いてきたのではないかと思います。」
すると社長が一言。 「そんな事聞いたら(君を)落としにくいじゃねえかバカヤロウ!」 その瞬間、10人の役員たちが大爆笑! 結果、最終面接に受かった僕は ずーっと行きたかった企業に就職する事ができた。 今、こうして入りたかった会社に就職して働けているのは 僕を支えてくれた「5階の家族」のおかげももちろんだが 一番は「7階のばーちゃん」のおかげといっても過言ではない。
時は経ち、今僕は30歳を迎える。 社会人5年目だ。 仕事は大変だけれども 自分が子供の頃から行きたかった企業で働けているという幸せを噛み締めながら 日々頑張っている。 この募集をきっかけに 昔の記憶を文字にする事で さまざまな懐かしい思い出が蘇ってきた。 今考えると 僕とばーちゃんのケンカは多かったが、 家族全体で考えると仲の良い家族だったと思う。
最近、高齢化に伴い 「高齢者の独り暮らしの問題」が非常に多くなっていると聞く。 母の提案は、ある意味 その問題に対する一つのアイデアを出したように思う。 「意外と良いことを思いついたな」と。 今思うと、 「同じマンション内の2世帯生活」 という「絶妙な距離感」がポイントだったのかもしれない。 もしも、「一軒家の中での2世帯生活」だったとしたら、 うちの家族の場合は 近過ぎる距離で「ストレス」を溜め合う息苦しい関係になっていたのかもしれない。
5階と7階という 互いの生活空間が確保されつつも、何かあったらすぐ飛んでいける! マンションならではの「絶妙な距離感」が意外と重要だったのかも知れない。 仕事が忙しくなかなか実家には帰れてはいないが 年末年始は、必ず大阪の実家に帰るようにしている。 その時に5階と7階 「ただいま」を2回言える 帰れる実家が2つあることの「不思議な幸せ」を この歳になって感じ始めている。
【講評】
同じ建物の中で、一定の距離を置きながら、二世帯が近居できるマンションならではのエピソード。
独居老人による孤立死が社会問題にもなっていますが、離れているが、つかず離れずのいい距離感で二世帯が暮らせるのはマンションならではのもの。将来的に、家族が見守りながら安心・安全に高齢者が暮らせるに二世帯住宅の形態のヒントなるところが高評価を得ました。
また、二つのただいまから垣間見られる、家族のコミュニティ。コミュニティの原点とも言え、非常に心温まるエピソードも高評価でした。
特別賞(復興のWa賞)
思いやりレー
髙橋 恭平 様 / 熊本県熊本市
平成28年3月18日,鍵の引き渡しが滞りなく行われ、夢のマイホームを手に入れた。熊本県熊本市中央区に新築されたマンションだ。私の転職で熊本に移り住み今年で5年目、縁も所縁もない地であったが、熊本の魅力に取りつかれ、長子が小学校に上がる前に…と、満を持して購入を決意した。内覧会以降、私自身ニヤニヤが止まらず嬉しくて嬉しくてたまらなかった。妻は家具の選定や配置を毎日シュミレーションしたり、4歳になる長女は1歳になる長男を抱っこして「新しいお家ではね、○○するんだ!」といったことを日々楽しそうに話したりしているのを見ていて幸せだった。一方、やや心配なこともあった。マンションは集合住宅であるため、“我が家のチビ達が隣や下階の住人の方に騒音等で迷惑を掛けてしまうのではないか”“完売したが、どんな方が購入されたのだろうか”ということは少し気になっていた。
しかし,引越後はそんな心配も気にならなくなる程の快適な生活を手に入れることが出来た。4月、年度始めの多忙な日々を送りながらの荷解きで、まだまだ引越業者の段ボールも山積みのままの生活が続いていた4月14日、そして16日、これまでに経験したことの無い揺れに襲われた。熊本地震だ。家中にある物という物がひっくり返され、鍵の引き渡しから1ヶ月も経たないうちにこれだけのダメージを受けたことに、しばらく、只々、悲しかった。しかし、ニュース等で不幸な情報を見聞する度に、“マイホームが家族全員の命を守ってくれたんだ”と思えるようになった。
4月16日早朝、家族で避難していた最寄りの避難所で食料の配給が行われた。3人以上の世帯にはパン2個、2人以下には1個というルールの元、配給が開始されたが、予想以上の長蛇の列で、早い段階で食料が足りなくなり、言い争い・食料の奪い合いが生じた。“これはとてもではないが、子どもを避難所生活させられない”と直ぐに感じた。
そこで、福岡から妻の両親に子どもを預かってもらうために迎えに来てもらった。しかし、この地震が引き起こした様々な原因により、とんでもない交通渋滞を引き起こしていて、通常1時間程度で来られるところを4~5時間かけてのことだった。その際,妻の両親から一定の食料と飲料を持って来てもらったが、続くライフラインのストップと相次ぐ近隣スーパーの臨時休業で、食料・飲料の心配は深刻だった。そして、避難所には、自宅が全壊したという方、いつ自宅が倒れるか分からないという方も多く居り、私のマンションも例外でなく、自宅に戻るか避難所生活を続けるか判断に深く悩んだ。
そんな中、マンション管理会社の方が水を各戸1ケース(2×6本)ずつ届けて下さった。もちろん大変な交通渋滞の中何時間もかけて持って来てくれた。そして、エレベーターが使えない中、11階まで12kgもある水を3ケース持って階段で上がって来てくれた。それは、その1回に限らず、複数回にわたり、水だけでなくパンやお菓子も届けてくれ、さらに、早い段階でマンションの安全性も保障してくれた。感謝という言葉以上に感謝の気持ちを伝えられる言葉を探したい。そのため、避難所生活を余儀なくされる方が大多数いらっしゃる中、我々は自宅マンションで比較的落ち着いた生活を送ることが出来た。
しかし、断水がしばらく続いた。数日後、デベロッパーの方から、エコキュートの貯水タンクの水がトイレの排水用等に使用できるとの電話連絡があった。それを受けて、“ほぼほぼ初めまして”の居住者の方々と協力して貯水タンクから水を得る方法を全戸で共有し、我々は一部難を逃れることが出来た。この瞬間、先述した“どんな方が居住されているんだろう”の心配が完全に無くなった。デベロッパー及びマンション管理会社、居住者が一致団結した2週間、一生忘れないだろう。
地震発生から2週間程、我が家は避難所化し、デベロッパーやマンション管理会社の方をはじめ多くの方々から支援してもらった分、私は近くの支援を必要としている様々な方々を自宅でお世話した。誰かが困っている時、誰か1人でも手を差し伸べる者がいれば、助けてもらった者は勇気付けられ、また別の誰かに手を差し伸べることが出来る。そのことをマンション入居後1ヶ月で経験した貴重な出来事だった。しかし,前代未聞の地震は我々被災者にとって不幸な出来事であったことは間違いない。それを乗り越えよう、乗り越えなければならないと思わせてくれるきっかけは、私にとっては意外なところにあった。
【講評】
震災に遭われた方々が送る避難所生活。老若男女が共に、共同生活する中では、エピソードにあるように、食料の奪い合いや、言い争いもあり、非常に苦労された中、マンション管理会社の判断による、早期の在宅避難への誘導は、マンション住民を安堵させる共に、さらに、飲料水の提供、エレベーターが使用できない状況下での荷揚げ等の積極的な支援活動には、仕事の範囲を超えた助け合いから生まれたサービスに大変評価するところであります。
また、マンション居住者は被災者にも自宅を開放し、地域共生を図ったことについても、大変高評価となりました。
佳作
「思い」をかたちに
朝日 由紀子 様 / 埼玉県川口市
うちのマンションも、12年目に入りました。 購入したときは、どこのうちも赤ちゃん、赤ちゃんで、「公園デビュー」がいらないぐらい マンションの中庭が、出会い/コミュニケーションの場でもありました。 今回、2015.4月末で、マンションの管理人を務めてくださったおじさんが、定年退職となりました。 11年間、ずっと住人の相談役、外部との取次、共有備品の修理や交換・・・毎日休む暇も無く私たちのために働いてくださいました。 特に私たち母親は、子育てにおいて 上記に挙げた中庭をきれいに、安全に管理してくださったこと、 子供たちの自由な振る舞いを、時には注意し、時には温かく見守ってくださったこと と、本当にお世話になりっぱなしでした。 そこで・・・ 「子育て家族よ! 感謝の会を開こうよ!!!」 と発起してしまったのは・・・おわかりだと思いますが私(笑)。
信頼のおけるママ友と一緒に、11年間の人脈をフルに発揮して、管理人さんのわからない水面下、動いてしまったのです。 お子さんのいる家庭・・・○○号室の××さんと、△△さんと・・・ と数えていくと、私だけで、50世帯/全200世帯中。 そこから「他にも知っていたら教えてね」と話が伝わり、 最終的には70世帯に広報させていただく結果になりました。
子供たちの中には、辞めることはおろか、管理人さんの仕事も、 自分たちが普段、どれだけお世話になっているか (どれだけ赤ちゃんの頃お世話になったか)もわからない子がいます。 その子たちに、 「親から話を聞き、管理人さんのことを知り、思いながら感謝を形にする時間」 を設けられればいいなと思ったのが、発起したきっかけです。
現実に、かかわりの濃薄差はあると思います。 子供の中には、書きたくない・・・という子もいます。 中庭には行かない、画用紙を埋める作業が苦手、はずかしい、忙しい・・・いろんな理由があると思います。 それでも親としてどう受け止め、伝え、子供にどう促すか・・・ "いざ"がなんであるか、いざというときに手足を動かすのはいつか・・・につながるところだと信じました。 広報させていただいた際、 特によくお付き合いさせていただいているママ友からは、 「協力するよ」「発起人ありがとう」「いいね」とメールをいただき、 子供たちもたくさん手足を動かしてくれました。
子供たちには色画用紙を配り、「任意ですが・・・管理人さんにメッセージを書いてほしいです」と募ると、こちらも100枚近くのメッセージカードが集まりました。 「感謝状」たる賞状も作成。 今の世の中、パソコンの無料ソフトで作れてしまいます。 でもいざ作ったら、全く味気がない・・・「思い」が感じられないと。 だからこれも、同じマンションの書道教室つながりのお友達、YちゃんとAちゃんに、 「これを参考にして、手書きで賞状、書いてみない?」 と仕事にして発注したところ、快く引き受けてくれました♪ これまでの2人をみていて、 『あなたたちは、「キモチを込めて字を書く」ことができる人たちだから、お願いしたのよ』と伝えました。
結果、温かみのある、思いのこもった賞状が完成しました メッセージ用紙をひと束にしてデコレーションするのは、MちゃんとAちゃん姉妹に。 花束を買いに行くの(花のチョイス)は仲良し6年生のTちゃんとHちゃんに。 会の開催レターの宛て名書きやポストインは、うちの息子がやりました。
感謝の会当日、50人ぐらいの親子が集まってくれました。 感謝状の読みあげ、プレゼンターもすべて、マンションの子どもたちに声をかけ、依頼しました。 最後にご挨拶をいただくと、 『こんなによくしてもらったの、生まれて初めてだ』と。 管理人さんは、契約上、有給休暇権利ももっているのに、11年間ほとんどお取りになりませんでした。 『家にいるより、このマンションに仕事に来た方が楽しい』 とおっしゃっていました。 いい管理人さんに恵まれました。 本当にありがたいことです。 11年間ありがとうございました。
佳作
管理員さんと挨拶のループ
中平 英司 様 / 京都府京都市
あるマンションでの管理員さんのお話です。この方はマンションが竣工して以来、17年間勤務を続けておられるベテランの女性管理員さんです。 マンション竣工当初は新たな入居者の引越しや受付、様々な問合せが入り、慣れない中で忙しい日々を送っていました。その後、徐々に引越しも一段落し、入居者の方々の生活も落ち着きだすとマンション全体も静寂を取り戻すようになりました。
当時はまだ新しいマンションでもあり、入居者の方も若い世代の方が多かったようで、各ご家庭でも赤ちゃんや幼稚園、小学生のお子さんも多数おられ、マンション全体が活気に満ちていたようです。管理員さんも少しでも入居者の方に喜んでもらいたいという思いから、常にマンションを綺麗にすることに力を注いできました。また、出会った入居者の方にはいつも元気で笑顔を絶やさず挨拶を行うことを心掛けてきました。入居者の方も、初めのうちは挨拶をしても返ってこなかった方もおられたようですが、この管理員さんはどのような状況においても明るく笑顔での挨拶を欠かさなかったようです。その甲斐もあり、今では全ての入居者の方から挨拶に対する返答が返ってきますし、入居者の方からも様々なお声掛けを頂けるようになりました。
このように入居者さんとのやり取りを行ううちに、次第に入居者の方との信頼関係も築かれることになり、マンションの中でも無くてはならない存在となってきました。ある時は、ベビーカーで赤ちゃんを連れておられるお母さんに挨拶をしたところ、子育てに対する相談を受けたり、またある時は幼稚園のお子さんから運動会での活躍を聞かせてもらったり、はたまた、ある小学生からは健足会で近くの山の頂上を制覇した話や、別の中学生からは受験に対する悩みの相談を受けたりと枚挙にいとまがありませんでした。
そうこうするうちに月日は瞬く間に経ち、今や当時赤ちゃんだったお子さんが高校生になり、幼稚園だったお子さんが社会人になるような年齢となりました。それでもその管理員さんはいつもと変わらず明るく笑顔で元気な挨拶を欠かすことなく続けています。
先日、その管理員さんがエントランスの清掃を行っているときに、後ろから挨拶をする声が聞こえました。振り向くと小さな赤ちゃんを連れたお母さんが立っており、よく見るとその若いお母さんには昔の懐かしい面影が感じられました。そう、当時受験に対する悩みを相談してくれた娘さんが、今やお母さんとなって実家に顔を出されたのです。久しぶりの再会とその娘さんの成長に感激し、その管理員さんは目頭に熱いものを感じながら、親しみをもって優しく挨拶を返しました。挨拶のループはこのように継続していたのです。
最近ではこの管理員さんの挨拶も高齢者への声掛けと健康確認がその目的の一つとして加わりました。時の経過とともに挨拶の意味合いも様々な様相を呈しますが、まだまだこの管理員さんの挨拶運動はとどまることはありません。入居者の皆さんの安心と安らぎを祈りながら。
佳作
一通の手紙から - 相続人を探して
山本 斉 様 / 東京都三鷹市
私はマンション管理会社の社員ですが最近あった管理費等の長期滞納に関する話です。 このマンションに住むヤマモトさんがマンションを売却される予定でしたがその途中で亡くなられたと不動産仲介の方から聞きました。ヤマモトさんは一人暮らしと伺っていたので売却されてどうするんだろう、事情があるのなとその時は漠然と思っていました。 亡くなると身内の方が相続されるだろう、と気軽に構えていましたがいつまでたっても身内の方がでてきません。滞納額もすぐ4ヶ月5ヶ月と過ぎていきます。登録住所へ電話・手紙をしてみますが連絡がつきません。私は理事会へ相談し弁護士による相続財産管理人制度を利用した回収を提案し、それが決議され手続きを粛々と進めていきました。
ヤマモトさんは一人暮らしでそれまでは会社の代表をされていたけれど会社が倒産して、と人伝に聞いていました。 弁護士による調査が進む内、ヤマモトさんは会社が倒産したので負の遺産が多く身内の方もほとんど相続放棄されてました。唯一まだ相続放棄されていない方がおられましたがアメリカに住む甥っ子さん、ということでした。
私たちはアメリカまで手紙をだし、事情を説明しこちらへきて部屋をみて相続の判断をするかしていただきたい旨の連絡をしました。アメリカに住まれていることを勘案すると合理的に判断されるだろうから、相続は難しいだろうと思っていました。相続人がなければ競売による回収かあ、せっかくの資産なのにもったいないなあと個人的感想を抱いていました。甥っ子さんからはこちらも予想に反して近々日本へいく用事があるのでその時にマンションを訪問するとの回答がありました。
私たちは理事会役員と一緒にその方を管理室で待ちました。 その甥っ子様が来られ一通り我々が事情を説明しその後部屋へ入られました。甥っ子様はアメリカに生活の拠点がありますから日本に資産を残しておくことも合理的ではなく、またまだお子様もいらっしゃらい状況では資産云々も現実的な話ではない、と私たちは思っていました。
部屋からでてこられて管理室でお茶をお出ししました。結論はやはり相続放棄する、ということでした。甥っ子様とヤマモトさんは親族とはいえ、関係が濃かったのは甥っ子様がまだ小さい子供の頃、それほど親しくしてもらったという記憶も遠く、冷淡という印象を持たれるかもしれぬが今の自分にはアメリカでの生活を最重点に考えるべきである、従って相続はできない、と整然と説明されました。
私たちも予想していたこととはいえこうもあっさりと仰られると、日本にまでこられたのだから少しは、と期待していた自分たちが甘かったとわかりました。
その後このお部屋は手続きを進めた結果、競売となり他の区分所有者様のものとなり滞納管理費等も新しい方に払っていただき、一件落着しました。落着したとはいえ、少しさびしいような悲しいような気持ちをもっていましたがそれも日々の忙しさの中で薄れていきました。 そのような事案があったことなどすっかり忘れていたころ、あの甥っ子様からairmailが届きました。ネットでのメールの時代にairmailとは古風な、という印象でした。内容は次のようなものでした。
アメリカへ帰ってからじわじわと叔父との係りが浮かんできた、子供の頃に遊んでくれた思い出、父の兄として我々を精神的にも経済的にも補助してくれたこと、その後叔父は事業に躓き、我々に迷惑がかからないようにと一人でフェードアウトしていったこと、暫くは音信不通の状態であったこと、それが突然叔父の死・相続という形で現れ困惑したこと、叔父は独身だったので係累も少なかった、部屋を訪ね身の回りの品を確認した時、我々宛ての出してない手紙があった、その内容は迷惑を掛けて申し訳ない、精一杯頑張ってきたけど結果は思い通りのものではなかった、この部屋は好きに処分してほしい、 遺言らしきものも遺せないが売却したお金が少し残ったら事業再生で頑張っている人々に寄付してほしい、というもの。負の遺産しか残していない叔父に対して当時は憤慨だったが今は人の一生を考えると、怒りだけでは前に進めないと理解した、叔父の生活の一端が知れて日本に行ってよかった、と書いておられました。
私たちは当事者ではなく組合のお手伝いをする立場に過ぎませんが、それでも様々な居住者がおられそれぞれの生活・人生がある中で、少しでも前に進まれることをお手伝いできたことは大変嬉しく思い、誠実に対応することの重要性を感じたairmailでした。
佳作
迷惑もご縁のうち
田村 巧 様 / 青森県八戸市
会社勤めであれば転勤は付き物である。ご多分に漏れず、我々夫婦も二年前に八戸にやってきた。ここの人々は穏やかで、街並みは落ち着きがあり、自然にも恵まれた風情のいい土地柄であるが、もともと関西で知り合った我々である。八戸ははじめての赴任地、なにせ寒い。身寄りもいなければ、いざという時に頼りになる友人もいないという、なんとも心まで寒い赴任生活を送っていた。
そんなある朝、洗面所のあたりからビタビタと音がするので、水栓の締め忘れかと思いながら見てみると、床のみならず、壁が配電盤もろともずぶ濡れになっていた。急いでマンションの管理人さんに連絡したところ、上の部屋の洗濯排水口が閉塞していたらしく、洗濯機のトレイからあふれた水が我々の部屋に流れてきたことが分かった。
上の部屋のご夫婦は共働きで、当時は二人とも出掛けており、管理人さんからの連絡ではじめて事態を知って急いで戻ったとのことであった。幸いにも管理人さんが迅速に連絡対応してくださったおかげで、まもなく水は止まった。その日のうちに電気系統と壁の点検も早く済み、ひとまず被害は最小限にとどめることができた。
とはいえ、これが原因で壁や床にひずみが出たらどうしよう、電気部品だって早く錆びてしまうかもしれない。ならばここはしっかり被害を主張せねばなるまいと、対応策に思いを巡らせた。先方は保険に加入しているか、ひとまず現金補償か、応じられなければ民事訴訟も、と考えるうちに怒りも高じて、冷静さを失いつつあった。
夕方、ご夫婦そろってお詫びのお菓子を持っておいでになった。 「申し訳ありませんでした。」 お詫びの言葉に加えて、排水口の掃除を怠っていた反省と、この件で何か問題があったら対応してくださるとのお申し出に誠意は感じられた。しかしこちらは被害者、考えたストーリーで賠償を引き出そうと構えた矢先、隣にいた妻が口を開いた。 「こんなことはお互い様、次は私たちがご迷惑をおかけするかもしれません。どうかお気になさらずに、今後ともお付き合いをお願いします。」 この一言で事態は穏便に収束した。
翌日来、フロントの郵便受けに朝刊を取りに行くときや、休日に洗車しているときなど、ご主人と出くわす機会が多くなった。いや、これまでも挨拶を交わしていたはずだが、意識していなかったに過ぎない。快活かつ気さくなご主人で、とても印象のいい方であることに今になってようやく気付いた。私は元々細かいところによく気が付き、人付き合いも下手ではないと自負していたが、これまで二年も挨拶している相手を気に留めていなかったという自分自身の無頓着さにあきれた。今思うとあの出来事があっても、こうして屈託なく毎朝挨拶を交わせるのは、あのとき穏便に事をおさめてくれた妻の一言のおかげであろう。妻の寛容さに救われた。
たしかにご近所との生活でいちいち目くじらを立てていたのでは何も始まらない。洗濯機の排水口はそうそう掃除するところではないだろう。私だって水があふれなければ詰まっていることなど知る由もない。むしろ排水口の掃除は大切であることを教えてくれたとも考えられる今回の出来事は、お付き合いが始まるきっかけづくりにすらなったのだ。互いに人と触れ合える楽しみを分かち合えるのが集合住宅の魅力。離れ小島でひとり寂しく暮らしているわけではないのだから、ご近所からの少々の迷惑も楽しめれば、心豊かに過ごせるものだと、あの一言を思い浮かべながら今日も郵便受けを覗いている。
つい先日、お隣さんの郵便受けに投函禁止の封印がなされていることに気付いた。お隣さんはご高齢で一人暮らしのようで、これまでお会いする時には娘さんらしき方が付添われていた。そういえばここ最近物音がしないし、電気メーターの回転も鈍い。もしやと心の準備をして管理人さんに聞いたところ、「あの方はもともとこの部屋を別宅のようにしておいでで、本宅もお持ちなんです。こちらにはチラシしか入ってこないので、閉じるようにと昨日申しつけられただけです。ちゃんとあのお部屋も今まで通りお使いになると思いますので、大丈夫ですよ。」と説明してくださった。安心した。お隣さんとまたお会いできると思っただけで、なぜか幸せな気持ちになれた。
上階のご夫婦は排水口が塞がるぐらい長くここで生活されているに違いない。今度、この地域ことを聞いてみよう。お祭り、習慣、お国ことば、おすすめのお店…、教わりたいことはいっぱいある。もちろんお隣さんにも。 今度私の数少ないレパートリーのひとつであるカレーをみなさんにお裾分けしたら、温まってもらえるかな。ご迷惑だろうか。
佳作
小さな思いやり
久保田 康弘 様 / 神奈川県川崎市
いまは、6月。 これは、私の勤務先マンションでの出来事です。 朝の巡回で、公開空地の植栽部を、清掃していた時です。 昨夜に降った雨と風で、木の葉も多く落ちていました。 空を見上げると、梅雨らしいどんよりとした天気です。 私は急いで、落ちている木の葉を集めて掃いていました。 その時です。 「あの、スミマセン…」と、私の後ろから、声を掛けられました。 振り向くと、そこには小さな女の赤ちゃんを抱いた若い女性が立っていました。 「はい、どうかされましたか?」と、私は尋ねました。 「こちらのマンションの方ですか」と、女性が言いました。 「ええ、こちらの管理員をさせて頂いていますが、何か?」 私は、女性にそう答えました。
すると、その赤ちゃんを抱いた女性が話を始めました。 「実は、先週の雨が降った火曜日の昼頃に、こちらのマンショの前を通った者ですが、傘が無く、この子の頭にをかざしながら歩いていた時に、こちらの年配の男性と女性が私達に声を掛けて下さいました。」 その内容は、次のような事柄でした。
雨の中を歩く私達を見て、 「ちょっと、待っててもらえますか?」と、マンション入口まで招いて下さいました。 そして、足早に建物の中に入って行きました。 「雨の日に、赤ちゃんを抱いて大変ね」と、残った女性が言いました。 「急に降り出したもので、休む所も無く困っていたんです。」 暫くして、先程の男性が足早に戻って来ました。 その手には、大きなビニール傘が握られていました。 「これなら、赤ちゃんも濡れないから持っていって下さい」と、傘を私に差し出してくれました。 もちろん、私はこのマンションの住人ではないので、 「えっ、大丈夫ですから…」と、遠慮したのですが、 女性の方が、「あなたは大丈夫でも、可愛い赤ちゃんが 風邪でも引いたら大変でしょ」と言って傘を握らせてくれました。おす 本当に、おす通りすがりで困っていた私にとっては、救いの神でした。
赤ちゃんを抱いていたお母さんが、言いました。 私は、その話を聞いて、その日に勤務をしていた男性と女性の顔が浮かびました。 マンションの清掃を担当して頂いているSさんと、Yさんです。 日頃から、マンションの清掃を一生懸命やってくれて、お住まいの方への ご挨拶や、お子さんへの笑顔を実践されていました。 そして、そのお母さんは、手にしていたビニール傘と紙袋 を私に手渡して、 「あの時の、お二人につまらない物ですが休憩時間にでも召し上がって頂くようにお伝え下さい」 と、言われました。 そう言い残して、赤ちゃんを抱いた女性はその場を去って行きました。
後日、このお二人に経緯をお話して、紙袋を手渡すと、 中には、お菓子と小さな手紙が添えられていました。 <あの時は、本当に助かりました。お二人のお心遣いで赤ちゃんも、風邪をひかずにすみました。 見ず知らずの私に、当たり前のように傘を差し出してくれた気持ちが、とても嬉しかったです。本当に、ありがとうございました。Kより(原文のまま)
マンションに、お住まいの方には勿論ですが、お困りだった人に 優しく出来る事と、頂いた手紙を見せて頂き、私はとても嬉しくなりました。 いまは、梅雨時期で気持ちも曇りがちでしたが、 梅雨空の雲の間から、キラキラと陽が射したような気持ちにしてくれました。
佳作
気づかされて
河村 一孝 様 / 神奈川県横浜市
間も無く2歳になる娘がいます。 娘は9カ月の時に細菌性髄膜炎にかかり、 合併症の脳梗塞で重度の障害が残ってしまいました。 寝たきりでご飯も口から食べる事は出来ません。 今のマンションに引っ越したのは、 ちょうど娘が病気で大変な時期でした。 大きな車椅子でしか生活出来ない娘と住むには、 普通の家では難しいと考え、 バリアフリーになっている今のマンションへの引っ越しを決断したのです。 正直、急な事でお金にも精神的にも余裕はまったく有りませんでしたし、 医師からは 「もう娘さんは笑う事も泣く事も出来ないと思います。」 そう告げられ、 妻も私もどん底の中、本当に辛いマンション生活がスタートしたのです。 昨日まで楽しそうに笑えた娘が、 急に人形のようになってしまったのですから生きていく自信すら失いました。
今のマンションは保育施設なども周りに有り、 子供のいる家族がたくさん住んでいます。 マンションの前には小さな公園があり、 いつも沢山の子供達が遊んでいます。 引っ越した頃はそんな子供達を見るだけで涙が出ました。 本当は娘もあんな風に遊べたはずなのに、 走り回ってパパ、ママと呼んでくれたはずなのに、 そんな気持ちで苦しくなったのです。 おのずと公園には行かないようになりました。 そんなある日、娘を連れて外出した帰りに、 同じマンションのAさんとすれ違った時です。
Aさん「こんにちわ、初めまして。」 妻「こんにちわ」 Aさん「娘さんお病気ですか?」 妻「あ、はい」 中略【今までの病気の話など】 Aさん「大変だったんですね、 何か出来る事があればいつでも言って下さいね。 ここで会ったのも何かの縁だわ、 いろいろ教えて。 私達が学ぶ事はたくさんあると思うわ」 Aさんにしてみたら何気ない一言だったんだと思います。 でも僕にとってはとても驚きでした。 教えて欲しい、学ぶ、 そんな言葉を使われたのは初めてだったからです。 障害のある子供がいれば、 一般家庭とはどうやっても違う所が増え、 自分達で何とかしなければ、 周りにはどうせ理解出来ない、 そんな気持ちで生活していた僕達にとってAさんの言葉は、 教えてくれたら一緒に考えるよ、 周りに助けを求めて良いんだよ。 そんな気持ちが込められていました。
娘の事は理解されない事がとても多いです。 それでも娘は一生懸命生きています。 周りに伝えなければいけない自分達が諦めてはいけない、 Aさんのように理解をしようとしてくれる人がいる、 一緒に考えてくれる人が必ずいる、 諦めちゃいけない。 そう思えた言葉でした。 本当に嬉しかったです。 それからは離れていた公園に行くようになりました。 子供達にも混ざるようになりました。 その時も、Aさんは自分の子供に説明してくださり、 Aさんの子供が優しく娘に接してくれました。
それを見た子供達はおのずとよってきて理解をしてくれました。 誰が言った訳でもないのに子供達が娘と優しく握手をして、 話しかけてくれる姿は本当に美しかったです。 マンションという同じ建物の中に住む間がらだったから、 このような会話が生まれ、 Aさんのような言葉は出たのかもしれません。 何気ない挨拶や会話が、 人と人とを繋ぎ影響すると、気づかされました。
佳作
私がマンションを買った理由
小林 秀子 様 / 神奈川県厚木市
私がマンションを買った理由。 『息子に部屋を与えたかったから』 我が家は母子家庭。決して裕福ではないし、養育費ももらっていない。 けれど、近所には母や姉がいて、これでもかと愛情を注いでくれる。 それまでは、2Kの古い貸家に住み、どこにいてもお互いの存在がわかるくらいの小さなお家。 古くてもきれいに住もう。 そう思って掃除もかたづけもきちんとしていたし、それで息子に文句を言われたことはなかった。 サッカーを始めてからは、狭いながらもたくさんの友達が泊まりに来てくれたし、 とても楽しく、満足していた。
一年生になり、ある日ふとランドセルの中のノートを見つけた。 パラパラとめくるとそこには 《打ち出の小づちがあったら何がほしい?》 一寸法師の授業での先生の質問だった。 《ぼくは、つくえといすがほしいです。》 脳みそが骨折した気分だった。 【狭い家には机も椅子も入らないし、勉強は茶の間でするだろうし良いよね。】 【うんいいよ】 そんな会話をした記憶がある。 欲しかったんだ。 でも、言えなかったんだ。 ごめんね。 必ず、必ずこの願いを叶えてあげるね。 寝ている息子を抱きしめながら、泣いた。
それからはひたすら働き、お金を貯めた。 そして、物件を探した。 マンションがいい。 古くても、しっかりした造り。 私の稼ぎで払っていける物件。 学校を転校しなくていい場所。 地域の人たちに見守ってもらえる環境。 私たち親子の安全基地。 そして、息子の部屋が与えられる間取り。 何度も何度も断られたり、流れてしまったり、 くじけそうにもなったけど、諦められなかった。 周囲にも無謀だと言われた。
そうしてようやく、ここだと思える部屋にたどり着いた。 一歩入った瞬間、『決めました。すぐに申し込みをさせてください』 こんなに古いのに? 値引きの交渉もしない私に、オーナーさんはすごく驚いていた。 私もびっくりしていた。 こうして私はマンションを買った。 息子にはまだ話していない。 ふと、思った。 ある日突然、家が変わったら、 ある日突然、自分の部屋ができたら、 そこには机と椅子があったら。 考えただけで笑いが止まらなかった。
家族、友人、学校にもかん口令を出し、 計画は実行された。 前日に息子を友達の家で預かってもらい、 すべての荷物を運び出し、 迎えに行き、 『ちょっとピンポンして』というと、 『こんにちは~』とおそるおそる開けた。 そこには、見慣れた仲間が待っていて、息子も何が起こったのか わからない状態だった。
促されて部屋に入ると、そこにはベッド、机、椅子、本棚。 壁にはサッカーでもらった賞状が飾られ、自分のランドセルを見つけて ようやくきづいた。 私や、みんなの顔を見て、キラキラしている。 『オレの部屋?』 『そうだよ』 床に座り込み、かみしめる姿を見て、私は声をあげて泣いた。 そこにいたみんなも泣いた。 うれしかった。 あの時とは違う涙だった。 あれから5年、なんとか無事に、この家を守っている。 成長し、反抗期を迎え、高校生になった。 若気の至りのいくつかの穴ぼことともに、 暮らしている。 いつか、そう遠くない未来にこの家を出ていく日が来るのかと思うと、 少し寂しい気もするが、きっとこの家は、ずっと私たちの安全基地だと思う。 古くても、宝物。 ここから見る朝日と夕日が、大好きです。
佳作
哀しみを救ってくれた笑顔の挨拶
奥田 益也 様 / 東京都葛飾区
私にとりマションライフは老境になってからの自分史そのものだといえる。それほどにマンションライフなしに私の後半生は語れないからだ。
マンションを購入した娘夫婦から同居を勧められて以来、まだ建設途上のマンションの現場を訪ね、囲いの外から覗いては、 「2階のあそこがウチよ」 「どれどれ」 「よく見えないわよ」 「これが間取り図」 「じゃぁ、ここから見えてるのはリビングだな」 と、子供のように目を輝かせて言い合ったものだった。
こうして私たち夫婦は二人暮らしの埼玉・浦和から東京下町のマンションに引っ越してきた。 入居最初は世帯数の多さに、まるで小さな町みたいだなと思った。住み始めてからしばらくは廊下で立ち止まり、「さて、どっちに行けば自宅に着くんだったか?」と、マンション内でウロウロした挙句、携帯で娘に道順を教えてもらうことが何回かあった。私をからかっていた妻も同じことをした。
娘に同居を勧められたとき、私は最初は渋った。マンションと言えば、隣人が何をしているかさえ分からず、住民同士も互いに無関心と頑なに思い込んでいたからだ。入居してからもしばらくはそんな気持ちでいたが、しだいにそんな頑なな気持ちも溶けていった。
我が家では黒パグを飼っていたが、散歩は私と妻の役目で、毎朝、毎夕連れ出しては近所を歩いた。そうするうちマンション住民の愛犬家とも顔馴染みになり、「お早うございます」「こんにちわ」と親しく挨拶を交わしたり、「病院はどこに行ってますか?」などと相談し合うようにもなった。 抱っこしてエレベーターに乗り込むと、場所を譲ってくれる人も多かった。 子供の中には「触ってもいいですか?」と恐る恐る撫でる子もいた。
そのうち「住民同士、おたがいに挨拶をしましょう」と、自治会と管理会社の張り紙の掲示があった。何事にもちょっと斜交いに構えるクセのある私は、自分の経験からも、“これだけ住民の多いマンションで顔見知り以外の人に挨拶するなんて出来っこないな”と思った。
ところが、私自身がまったく見知らぬ住民から「こんにちは」と挨拶され、戸惑い、つい周囲を見渡した。“アッ!私にしてくれたのか”と気づき、慌ててその人の背中に「こんにちは」と返したのだった。 マンション入居から3年目、娘に男の子が産まれた。私たち老夫婦にとり初めての孫息子だった。妻はお宮参りに着せていく衣装を嬉しそうに縫った。育児と家事で疲れた娘に代わって孫をバギーに載せ、散歩に行くのが何よりも楽しみだった。やがて喃語を喋るようになり、這い這いし、初めて自力で立ったときは、思わず「偉い、偉い」と皆で飛び跳ねた。夫婦で孫の手を引き、公園に遊びに行ったり、スーパーにオモチャを買いに行ったりと、ジジババ馬鹿を地でいった。この子の成長が宝ものだった。 マンション中庭でのサマーフェスティバルでは住民同士ビールを飲みながらジョークを飛ばしたり、近隣の人々とも交流し、楽しい時間を過ごせた。
だが、嬉しいことばかりではなかった。
孫が可愛い盛りの2歳の頃、妻が突然、脳腫瘍で急逝したのである。42年間連れ添った妻の急な他界に、私は張り合い失い、腑抜けのようになってしまった。
そんな私を救ってくれたのが、マンション住民の皆さん、マンション管理員さんたちの挨拶の言葉だった。「おはようございます」「こんにちは」。文字にすると、たったそれだけの短い言葉だが、笑顔で挨拶されると、暗く澱んだ心をパッと明るく照らしてくれる。私自身も挨拶を返すと萎えていた気持ちに力が蘇っていった。日がな妻の遺影をボンヤリ見ている私に、幼稚園児になった孫がかけてくれた言葉にも、ハッとさせられた。
「ジイジ、写真になっちゃだめだよ」 立ち直ることができ立ち直れた私はパートで清掃会社で廃棄物仕分けの仕事にも就けた。自分のヤル気に自信を回復した私は、本格的に仕事に復帰するため今夏、事務所兼自宅のマンションに移ることになった。
最愛の妻の死という人生最大の哀しみはあったけれど、明るい挨拶の声が絶えないマンションライフは、本当に楽しかった。
佳作
マンションの約束
神馬 せつを 様 / 石川県金沢市
「こんにちは! お久しぶりです」と、元気な声で訪ねてきた妙齢の女性を見て、不思議そうな顔をしていると、遅れて出て来た妻が、 「もしかして、由香ちゃんなの?」と、女性の顔を確かめるようにして覗き込んだ。 「少し白髪が増えたようだけど、ニコッと笑うと目が三日月みたいになるおばさんの顔、少しも変わってないですね」と、さも嬉しそうに笑いながら、 「おじさんも、昔と何も変わってないわ。タヌキみたいな大きなお腹もそのままだし」 と遠慮なく言いながら、 間髪を容れず、 「おじさん、おばさん。あの時の二つの約束を覚えていますか? いま外壁を見たら緑のカーテンが見事に育っていたので、それがとっても嬉しくて…」 それを聞いた途端、妻は小指をヒラヒラさせながら、「由香ちゃん! ご結婚、おめでとう!」と、涙声で叫んだ。
☆
それは、もう十五年も前のことになる。 「こんにちは! 二階に越してきた田中由香と申します。すみませんが電話を貸してもらえませんか?」と、小学生の女の子が十円玉を差し出しながら、マンションの一階に住む我が家に訪ねて来た。 突然何事だろうと思い、私は固まってしまったのだが、妻は微笑みながら電話機のある居間に少女を案内したことを、まるで昨日のように覚えている。
私一人なら、「引っ越して来たたばかりで、まだ電話が通じないのかね?」なんて無粋なことを尋ねたのだろうが、妻は小声で、「そんな風に聞かれることが乙女にとっては恥ずかしいことなのよ」と私を戒めながら、 「私の両親は聴覚障害を持っているので会話が出来ないのです。だから電話機もないのです…って、心の中でそう訴えているのよ。それぐらいわかってあげなくちゃ。同じ屋根の下に住むことになったご近所さんなのですから」と、さすがに女性は機転が利き、物分りも早かった。 それにしても、このマンションには多数の部屋があるのに、どうして我が家を選んでくれたのだろう? と疑問に思っていたら、 「わたし、天まで延びるような植物が大好きなのです。そんな緑のカーテンを育てている人は、きっとやさしい人だろうと思って…」 なんて、お世辞も忘れなかった。
その後も、申し訳なさそうに十円玉を差し出す姿を見た妻が、少女の手をそっと包み込むように撫でながら、 「由香ちゃんは、きっと素敵なお嫁さんになれますよ。だから負けずに頑張ってね」 と、二人で微笑み合い、「結婚式には必ず招待しますから」という指切りゲンマンの約束をしたものだった。
二年後に由香ちゃん一家が東京に引っ越して行くとき、もう一つ約束したことがあった。 それが、「わたしのことを忘れないように、緑のカーテンを毎年絶やさずに育ててくださいね」というものだった。
その一つ目の約束を守り、招待されて出かけた由香さんの結婚披露宴が終わろうとした時、新郎が神妙な顔で「由香、手話を頼むよ」と言って立ち上がり、手紙を読み始めた。 「僕が初めて由香さんのご両親にお会いした時、お父様から『私達がこんな身体で申し訳ありません』という書面をいただき、深々と頭を下げられました。でも、障害をお持ちのご両親が、由香さんを育てられたことは、並大抵のご苦労ではなかったと思います。お父さん、お母さん。由香さんをこの世に授け、愛情一杯に育ててくださって本当にありがとうございます。これからは私が由香さんを必ず幸せにします」
新郎の言葉を間違いなく両親に届けようと必死の由香さんは、溢れ出る涙も拭かずに手話を続けた。 人前では絶対に涙を見せないというのが、由香さんとご両親の堅い約束だったことを知っていた妻も、ご夫妻の嬉し涙を見て号泣し、私も貰い泣きをしてしまった。 披露宴も無事に終わり、会場の出口で見送りをしている由香さんに、妻がそっと手渡したものは、古い貯金箱だった。
それは、我が家に電話を借りに来る度に、由香ちゃんが小さな手で握りしめていた、あの十円玉がいっぱい詰まった貯金箱だった。 少女が遠慮して電話を借りづらくならないようにと、妻はちゃんと十円玉を受け取り、いつか渡そうと貯めておいたものだった。 約束を守った由香さんに感動したが、結婚式に貯金箱を渡そうと心に誓っていた妻も立派だった。 そして、マンションに緑のカーテンを育て続けてきた自分にも、ちょっぴりご褒美をあげたくなった。
佳作
コミュニティ・ネットワークー
祐仙 淳子 様 / 大阪府泉大津市
私の住むマンションでは新聞を発行している。年4回のコミュニティ新聞だ。平成25年から、マンションの自治会広報委員が手作りで始めた。これがなかなか面白い。私はこの新聞のファンである。 子育て世代で仕事も忙しい盛りの委員さんが、突撃インタビューに行ったりして紙面を作る。地元の楽しいお店を紹介したり、今自分たちのマンションで何が行われているかを写真入りで紹介したりという記事が、A3・裏表・全カラーの紙面に生き生きと踊っている。
私は、発行第3号の「ネットワーク・リレー・エッセイ」に登場させてもらった。簡単な自己紹介的なエッセイ記事である。このコーナーで、自分のマンションに様々な人がおられる事を知った。子役でテレビに出ている人、美容師さん、音楽家等々。そしてその後、次々にバトンが渡されて今は第15号までリレーされている。入居世帯数283の我がマンションでは、入居者同士の顔を知らないで過ごしていることも多い。だが、これからは入居者の高齢化もあって、ちょっとした声掛けが重要な時もある。特に度重なる災害によって助け合いが求められている時代に、顔を知って声をかける事ができるマンションって素敵なことだと思っていた。この新聞で、子供たちの行事や、一緒に出掛ける歩こう会や、知り合いの音楽家を招いてのパーティといったマンション行事への参加者も多くなった。そして気軽に挨拶を交わす声が、マンション中に広がっていったのである。
ある日の出来事である。震度4の地震が起こって、マンションのエレベータが止まってしまった。偶然エレベータ前にいたのは、私を含め年齢もまちまちの5人の人達だった。管理人さんからは、再起動するまでどれほどかかるか分からないと知らされたので、私たちは顔を見合わせながら思案してしまった。階段を上るのはお年寄りにとってはかなり厳しいものである。と言って、いつまでもエレベータ前でたむろしていても仕方がない。5人の中で一番高齢の人が皮肉なことに一番高い階だったのだ。すると一番若くて元気な子が、「僕、一緒に付いていくから上がろう」と励ましの言葉をかけてくれた。「ネットワーク・リレー・エッセイ」に登場した子役の男の子だ。そうして登り始めた私たちは、3階ほど上ったくらいから息が切れ初め、10階で足が上がらなくなり、12階で手すりに縋りつきながらハーハー言って階段に座り込んでしまった。もう、足がびくともしない。年齢もまちまちの私たちは、励ましあいながら色んな話をして元気が戻るのを待った。日ごろじっくり話すこともない年齢層の5人が、いたわりあって不安を紛らわせる事ができたのだ。
あれから三年ほどが経つが、先日発行の第15号で「防災特集」が組まれた。マンションに住む高校生に集まってもらって、防災についての対談を行なったのだ。防災委員の方が、「住んでいる階まで階段を上がり降りしたことがあるか? また、自分の階まで階段で食料を運ぶ自身があるか?」と。私は、実際に体験した事なので、非常に興味を持ってこの記事を読ませていただいた。そして、次の質問「エレベータが止まると、上層階の人や高齢者の方に食料品を届けないといけなくなりますが、階段用の担架もないので、いざという時は若い人の力に頼りたい。手伝ってもらえるかな?」という質問は特に気になった。
すると高校生たちは、「はい、お手伝いできます」 「私はボランティア活動が好きですし、私にも出来ることがあると思っています」「エレベータありで今まで過ごしていたので、今から出来ることを考えていきます」という答えが返ってきている。これから、高校生・大学生のネットワークを作っていくと、防災委員の方の言葉で締めくくられていた。人の輪は、こうして地道に心と手間をかけて日ごろから築いていくのだと、この新聞から教わった気がした。この新聞の取り組みはなかなか面白い。私はファンである。
佳作
忘れ得ぬ手紙
岩岡 千景 様 / 神奈川県川崎市
私は2人の娘がいるシングルマザーです。東京都と神奈川県の境を流れる多摩川に近い「クレストフォルム登戸」というマンションに住んでいます。ここへ引っ越してきたのは15年前。長女が小学1年生になったばかりのときでした。
その年に私は幼い娘たちを抱えて離婚していました。傷心の私に「昼間は私が子どもたちを見ててあげるから、近くに引っ越しておいで。あなたは心おきなく仕事すればいい」と2歳違いの姉が言ってくれ、姉が住むマンションがたまたま1室空いていたので、移り住んだのでした。
姉はその言葉通り、平日は私が仕事を終えて帰宅するまで、小学校から帰った長女を自分の家で見ていてくれました。私は4歳の次女を近所の保育園に預け、毎日、夕方まで働く生活を始めました。
けれども、姉にも家を空けざるを得ない日がありました。姉もまた幼い2人の娘を抱え、自身の子育てで忙しくしていました。子どもに急な発熱などがあれば病院に連れていかなければなりません。習い事や友達の家への送り迎えなどもあります。ついこの間まで保育園児だった小さな長女が、独りぼっちになってしまう時間が、どうしてもありました。
そんな時、家に呼んで面倒を見てくれたのが、同じマンションに住む同級生の女の子のお母さんでした。「うちにいらっしゃい」という言葉に甘えて長女はしょっちゅう、私や姉が不在の時間をそのご家庭で過ごすようになりました。
私はほっとしたものの、一方で心苦しさも感じていました。私は毎日、仕事に出ていかなくてはならず、その同級生を家に招いてお返しすることができません。お世話になりっぱなしで、そのご家庭に長女が行くたびに、申し訳なさが募るようになっていきました。そのため長女を迎えに行くときはいつも「ありがとうございました」と何度も頭を下げ、「せめてものお礼に」と仕事帰りに菓子折を買っていくこともたびたびでした。
そんな私の心苦しさを察したのでしょう。ある日、そのご家庭のお母さんが「これ読んで」と手紙をくれました。帰ってすぐに封を開けると、その手紙は「いつもいつも気兼ねしているようなので、思いきって書いちゃいました」という文で始まっていました。そして連日のように長女がお世話になっていることを「何とも感じていないので、そんなに気を使わないでくださいね」と前置きし、長女の日ごろの様子が淡いピンク色の便箋3枚にわたって記されていました。
長女はそのご家庭の娘さんと2人で勉強して、2人で近所に遊びに行って、2人で帰ってくること。それが本当に楽しそうで、自分も安心すること。そんな日々を重ねる中で、今やうちの長女がそのご家庭にとっても「なくてはならない存在」になっていること。雨の日に買い物に行くときには姉が車を出してくれることがあり、とても助かっていること…。 そして、手紙はこう締めくくられていました。「ですから、大丈夫なのですよ。おたがいさまなのです。本当に、つくづく同じクラスで良かったよね。これからもどうぞよろしくお願いします」
「おたがいさま」。その言葉に、私の胸の中にくすぶり続けていた「申し訳なさ」はすっと消えていきました。そして心の底からほっとして、涙があふれてきました。
その後、私や姉やそのご家庭と、ほかにも子どもがいるご家庭が加わって、多摩川の河川敷で親子でバーベキューをしたり、週末にわが家に料理を持ち寄ってみんなで集まったり。子どもを通してマンション内での交流が広がっていきました。管理人のおばさんが「おたくのお子さん、顔を見るとすぐに挨拶してきて、偉いねえ」などと声を掛けてくれることもありました。
長女と、お世話になってきたご家庭の娘さんは今、そろって大学生。相変わらず仲良しで、昨年は成人式へ一緒に出かけて行きました。長女は将来は子どもにかかわる仕事に就きたいと、子どもに音楽を聴かせるボランティアに精を出しています。次女も今春、無事大学生になりました。
娘たちがここまで育ってこられたのは、同じマンションに住む人たちに支えてもらえたから。娘たちは親だけでなく、周囲のたくさんの人たちに育てられてきました。そうして家族のように笑顔でいられる時間を一緒に過ごしてきたマンションの方々へ、感謝の気持ちを忘れずにいたいと思っています。
佳作
老人はワンルームマンションを目指す
金井 紀夫 様 / 東京都豊島区
住み慣れた3LDKのマンションを引き払い、池袋の隣り街大塚のワンルームマンションを購入、入居したのは五年前のことである。私たち老夫婦(67歳と63歳)が、ワンルームマンションの手狭な部屋で暮らすと言い出したものだから、子供たちには猛反対され、友人からは何を物好きなと鼻で笑われた。
以前、私は200戸を超える大所帯マンションに住んでいた。理事長を経験し、町内会にも顔を出し結構濃密な人間関係の中にいた。人間関係を密にし理事会を活性化する、さらに地域コミュニティを充実させることがマンションライフの理想の形だと、私もそれを金科玉条にして疑いもしなかった。 それがやり甲斐というか、生き甲斐の一つでもあったが、会社を退職してからは、マンション内での人間関係が次第に煩わしく億劫なものになってきた。理事会に参加して欲しいと再三要請があったが、頑なに断った。
年を重ね、脂っぽい肉料理からサラリとしたお茶漬けに嗜好が移るように、誰からも煩わされない静かで穏やかな生活を送りたいと、夫婦共々切実に思うようになった。 当初は50~60戸の小型ファミリーマンションを考えたが、管理組合が機能している限り煩わしさは変わらないだろう。それならば、思い切って管理組合が機能していないワンルームマンションがいいのではないかと閃いた。
かくして、移ってきたのが戸数58戸の大塚のワンルームマンション。夫婦暮らしは私を含め僅か3所帯ぐらい。中年サラリーマンと思しき人物が数人。後は二十代の若者で、ほとんどが賃貸入居者と思われる。 そんな新たな環境の中に身を置いたのだが、実際に住んでみると…… ?予想していた通り、静かで快適な生活が送れること。
ほとんどの住民が勤め人で、日中は物音一つしない。夜も静まり返っている。ペットを飼う者もなく、騒音問題もない。 ?一番嬉しいのが、住民同士の交流がなく煩わされないことだ。 住民の名前は全く知らない。挨拶はエレベーターで鉢合わせたときだけ。ホテル暮らしの快適さと同じ感覚なのだ。 ?理事会活動が不要であること。 入居して五年間、理事になっくれとの声は一度もかからない。一度総会に出席したが、議案書を読み上げて15分で終了。要は管理会社がしっかりしていればいいのだ。かつて騒いでいた新管理者管理方式は、ワンルームマンションでは先取りして上手く行われていると言っていい。 ?絶妙の距離感の管理員、管理会社。 管理員は午前中だけの隔日出勤。管理会社の社員も顔を見たことがない。ベタベタした関係を持たずに済むのが有難い。何事もないのが最高の管理というもの。町内会の盆踊りも不要である。 ?強調しておきたいのは、外国人入居者と良き緊張感があるということ。 猛烈な勢いで外国人が増加していて、ウチのワンルームマンションもご多分に漏れず三分の一は外国人が入居している。人相、風体、ファッションなどで大体分かる。確かにエレベーターで鉢合わせした時などチョピリ緊張する。
しかし、それは先方とて同じことで、緊張を和らげるべく口角を上げて会釈してあげる。これで先方の緊張も解ける。友好促進のコスモポリタン化に少しは寄与していると思えば、ま、この程度のサービスならしてもよい。外国人とのトラブル事例は皆無である。 最後に、偽善っぽい 「コミュニティーに積極参加」などの言葉に迷わされず、静謐と寡黙に満ちた穏やかな環境の中で晩年を過ごしたいとお思いの老人の方々には、ぜひワンルームマンションをお勧めしたい。 ただし、身体が健常という括りはつくが、私もいずれは車椅子のお世話になる身である。その日まで健康に留意し、ワンルームマンションの快適さを目一杯満喫したいと思っている。
佳作
ご近所マンション合同イベント「炊き出しフェス」
櫻井 良雄 様 / 神奈川県川崎市
4月18日、「熊本の被災者に支援物資を!」熊本出身のママさんからSNSメッセージが久本地区にある3つの大規模マンションに流れた。有志の一人が知人を頼り被災地のボランティアグループ、PTAと連絡を取り、いま必要な支援物資をSNS、掲示板に流した。すぐに支援物資が集まり始め、翌日には水・食料・衛生用品が主体の段ボール31個口をボランティアグループあて宅送した。避難所の炊き出しに調味料・食器が必要と被災地からの連絡、刻々とに変わる支援要望の状況をSNS、掲示板に流し続け、24日の熊本県益城町のPTAあてまで、宅送した支援物資は合わせて段ボール85個口、カンパは40万円に及んだ。
SNSを使ったママ友の情報連絡網、迅速な行動力、支援呼びかけに対する住民のクイックレスポンス、励まし、そして多くの支援物資の提供、少しでも被災地の役に立ちたいという住民の力に支えられた。いざ震災が起こったときに必要なこと、緊急時に子どもたちを守っていく実地訓練など、マンションの垣根を超えたコミュニティづくりができるという自信が生まれ、「3つのマンションのコミュニティ捨てたものではない」を実感した感動の1週間であった。
その感動の余韻が残るGW明けに1通のメッセージ「ご近所マンションイベントPart2を企画しましょう」と。 この3つのマンション、築年数・住戸数が33年1,103戸、16年547戸、10年648戸と住民の年齢層は異なるものの、久本地区5,800世帯の4割を占める大規模マンション。ご近所とはいえ、秋祭りなどのイベントで物品の貸し借りはしてきたが、今回のようなマンション連携はかつてなかったこと。ただ長期修繕計画、防犯防災、高齢化、コミュニティづくりと言った大規模マンションが直面する問題はいずこも同じ。先行したマンションの知見・事例を交流しあえば他のマンションにもきっと役立つ、「3マンションで連携を作っておけば、いざ何かあったときにそれぞれが持っているものを使いあって助け合うことができるはず」と2年前から話し合いを始めてはいた。
先ずは実績づくりからと、今年2月に初の合同イベント「ご近所マンションお餅つき大会」を開催。600人を超す参加者が餅つきを楽しみ、ふるまわれたお餅・芋煮・ぜんざいなどを食べ、みなで語り合い、マンションの垣根、世代を越えた交流を成功裏に終えることができた。餅つき大会はご近所マンション交流のきっかけ作り、もう一歩踏み込んだ「知見の共有」を目的とした第二弾の企画作りのメッセージであった。
メッセージに曰く。万が一、溝の口に災害が起こり、どこかのマンションが倒壊、火災などを考えると、今回の被災地支援はリアルな防災訓練であった気がします。また、ご近所連携の機運も感じています。つぎの合同イベントとして、熊本の多くの場所で今も行われている「炊き出し」をテーマにしたいと。各マンションの防災訓練でも炊き出しは実施されておらず、有事の際の炊き出しに不安もあります。大きな機材を使わずにカセットコンロを使った小さい炊き出しが小グループごとにあっても良いでしょうし、炊き出しの後は避難所の確認や防災に関する情報交換などの場も設けたいと考えています。
餅つき大会、被災地支援で気心が知れ課題認識を共有した有志達の動きは素早い。5月末には3マンション合同防災訓練「炊き出しフェス」の企画が出来上がり、防災訓練助成金の活用・非常備蓄品の提供など区役所の協力も取り付けられ6月26日を迎えた。 開会宣言に続いて、支援の窓口となった益城町立小学校PTA会長の講話「益城町で起こった大震災 震度7が2回ってどういうこと?」で震災、避難所生活の現実を学ぶことから「炊き出しフェス」が始まった。豚汁・アルファ米おにぎり・アルファ米チャーハン・流しそうめん・ひとくちソーセージなど、「炊き出し」をキーワードに各マンションが思考を凝らした料理を参加者に提供。ローリングストックを使ったアイデア料理教室、溝の口の段ボールジオラマを組み立てながらの図上災害訓練、さらに防災マニュアル、災害時要支援者名簿など各マンションの防災への取り組みの紹介・交流など、参加者が楽しみながら防災についての意識・知識を深めることができ、みなで「花は咲く」を合唱して感動のフィナーレとなった。
この半年余りの「ご近所マンションイベント実行委員会」活動で得られたこと。 オープンな雰囲気づくり、楽しいから参加するから参加したいイベントが、 ? 地域、マンションの垣根を越えた横軸の繋がりを生み、 ? 若者、ママさん、おやじ世代、先輩世代といった多世代(縦軸)が持ち味を活かしあい、 ? 地域全体が活気づき、災害時にも頼れるコミュニティに成長させる との確信が強固なものとなった。その意味で久本地区の4割を占める3つのマンションが果たす役割の重要性も認識しています。これからも3つのマンションが連携を深め、近隣マンションを巻き込み、地域町会とともに街全体の活性化に貢献していきたい。
佳作
「83分の5 心の出会い」
脇坂 恵美 様 / 神奈川県横浜市
「なに、このシャリシャリ感は」 「小ぶりなのに、おいしいね」 「甘いし、みずみずしいし」 「でしょ。だから、みんなに食べさせたかったのですよ」 「子どものときのように、縁台で食べたら最高だろうなあ」 5階に住むHさんから「次回、バーベキューでご一緒するまで少し間隔が空いてしまいます。おいしい三浦のスイカをぜひ、みなさんに食べていただきたい。土曜日の夜8時に1階ロビーに集合願います」と主人の携帯にメールがあったのが1週間前。彼は“少し間隔が空く”と言っているらしいが、「おやじの会」なる徒党を組んでいる主人たち5人の中年おやじたちは、つい、この間の土曜日もここマンション1階のロビーに、お茶とお菓子を持ち寄り、男同士の井戸端会議を開いたばかりなのに、だ。
もっとも、当の主人たちは「俺たちの場合は井戸端会議とは言わない。マンション内の異業種交流会。5人の経験や職業観を通して社会や経済の出来事について話し合い、お互いの価値感を交換しているんだよ」などと、うそぶいているのだが。 なるほどねえ。言われてみれば、たしかに5人のおじさんたちの仕事はバラエティに富んでいる。公務員もいれば、自動車メーカーのエンジニアにもいる。IT企業や家電メーカーで働く人もいれば、マスコミ人もいる。主人の言葉を借りれば「5者5様の知識や経験、日々の出来事が、お互いに知らない世界を覗き、覗かせてくれる」らしい。
なぜ、このように、ちょこちょこさいさい会うのが楽しみになるような関係になったのか?今では主人どうしだけでなく、5人それぞれの妻までもが5人のおやじたちとの語らいが楽しみになってしまったのはなぜなのか。その出会いの舞台となったのは、マンション管理組合の理事会だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私たち夫婦は2人の大学生の子をもつ50代。横浜市内のとある高台にある、83世帯のこの中規模マンションを購入し、引っ越してきたのは新築成ってすぐの平成25年9月だった。 転勤族であり、近い将来、子どもたちが独立したら、持家もあれば、ご先祖さまの眠るお墓もある田舎に帰るつもりであった私たちは、「長く住んだとしても退職するまでだね」と話していた。マンションでの人間関係も「可もなく不可もなく」程度で十分だと思い、余り多くを期待してはいなかった。
ベランダからは、みなとみらいや横須賀方面まで見渡せるし、私鉄と地下鉄の2路線が使える最寄りの駅までは、徒歩10分少々と足の便も悪くない。夏ともなると夜空に花火が浮かび上がり、風の気分次第では「ポーン、ポーン」という音まで届けてくれる。そう、仕事の疲れを癒し、家族と楽しく、無事平穏に暮らせさえすれば「それで良い」と考えていたのだ。
そもそも夫婦共働きで、子どもたちも大学生ともなると、そうそうマンションに住まう方たちとは接点が無い。どの方とも挨拶を交わす程度の関係だ。中にはこちらが挨拶をしても挨拶を返してくれない残念な大人も子どもだっているのだ。最低限のコミュニケーションがとれない「ご時世」であることを心の中では憂えながらも、「見ざる・言わざる・聞かざるでやっていこう」と自分自身に言い聞かせている間に、輪番制を採っている理事会の役員が早くも回ってきた。
各階から1人ずつの選出。「挨拶をしても、返してくれないような人がメンバーの中にたくさんいたらどうしよう」と不安な面持ちで、最初の理事会には夫婦で参加したのが、つい昨日のことのようだ。 最初が肝心かなめ、役割り分担の大仕事だ。「立候補者がいない場合、くじ引きか、じゃんけんにしましょうか」と管理会社の方から、お決まりのけん制球。私も含め参加者全員が、それぞれ相手の出方を見ているような嫌な空気が流れる中、「よろしければ私が理事長をやりましょうか。そうしたら後の役割は決めやすくなるでしょう?」と口火をきる男性。声の方を振り向くとなんと夫ではないか。
思わず私は「あなた自身、ただでさえ仕事も忙しく残業の日々なのに・・・なんで理事長を引き受けようとするの?」と叫んでいたが、驚きのあまり、そのセリフが口を突いて出てこなかった。私は考えた。「築3年目のマンションともなると、1期目からの引き継ぎ事項もある上に、毎日のくらしの中での問題も生じてきている。83世帯は家族構成が違えば、年齢構成だって違う。何よりも住まう人それぞれの、あるいは家庭の「価値観」が決定的に違うのに、安請け合いをしてしまってもよいのだろうか」と。
長年夫婦をしていると、なぜ、夫が理事長を引き受けたのか、わざわざ聞かなくてもその答えは分かってしまうものだが、帰りの道すがら、あえて理由を聞いてみた。すると、夫いわく「誰かが引き受けなきゃならない。今日のメンバーの印象も悪くない。30代、40代、50代とバランスも良いことだし、何とかなるよ」…。公益の尊重、あるいは社会正義という文字が手足を付けているような夫の妻である私からすれば、ここまでは、ほぼ「想定の範囲内」。ただ、少なくともこの時には、5人のおじさんたちのみならず、それぞれの妻までが、理事の任期を終えてもなお、気の置けない仲間としてお付き合いが続くようになるとは思いもよらなかった。夫だって、きっとそうだったに違いない。
理事の任期は1年。ほぼ毎月1回のペースで定例会がもたれた。決まって土曜日の午前中がつぶれるのに、面倒がる訳でも、疲れて帰宅する風でもなく、むしろ、水を得た魚のようにいきいきとして帰ってくるではないか。
いろいろと定例会の話をきいていると、検討事項を話し合いながら、時に冗談を交えて雑談もし、5人のおじさんたちが本当に実りのある、充実した時間を過ごしているのが分かってきた。話を聞いている私までもが、耳に心地よかった。
3期のメンバーは、理事会で互いの意見を真剣に交換することで、いつしか互いを急速に理解し合い、かけがいのない仲間になっていったようだ。そんなメンバーだったからこそ、マンションの世帯や年齢の構成を念頭に置きながら、特に30代の子育て世代が多いというこのマンションの特性を考慮しつつ、いろいろな協議が出来もしたし、総会に諮るべき、いろいろな事柄をてきぱきと決めていけたのだろう。
実際、理事会での検討課題は実に多岐にわたった。購入する防災備品の選定とその管理の在り方を検討。隣接する保育園からの砂ほこり問題にも正面から向き合った。毎日の暮らしの中で発生する不法駐車や、隣室の音や煙草の煙へのクレームにも対処した。5人のおじさんたちは、中期的な視点も欠かさなかった。東京オリンピック・パラリンピックを控え、懸念される民泊問題への備えの必要も問題提起した。将来の大規模改修をにらみ、長期修繕計画と修繕積立金の見直しの検討を円滑に進めていく、そのための環境整備も行った。5人のおじさんたちのそうした熱意が伝播したのか、総会の議論も大いに盛り上がり、83世帯大多数の理解と賛同を得て議案はすべて可決した。次期理事会メンバーへ継続案件を申し送り、5人のおじさんたちは理事として職責を全うしたのだった。
理事会の任期を終えた日。誰言うとなく設定された打ち上げには、言い合わせた訳ではないのに、5人のおじさんの奥さんも全員が参加。不承不請、理事になった日にはまったく予想していなかったことだが、この時から、私たち5世帯の心の交流は「次の新たなフェーズ」へと進んだのだ。
正直なところ、この歳になって家族ぐるみのお付き合いが始まる友人が、一度に5世帯も増えるとは夢にも思っていなかった。私たち夫婦には友人が多い。すでに長年にわたって家族ぐるみでお付き合いをしているご家族も何組かいる。しかし、今回のように、何ら意図することなく親しくなれたという心のふれあいは、今までにはない、初めての得難い経験だ。これも何かの御縁。この御縁に感謝しつつ、末長く、大切に友情の花を育んでいきたいと、心底そう思う。
輪番表がもたらしてくれた「83分の5」の出会い。これは一つの奇跡なのだ。マンション管理組合の理事をするのも悪くない。自分たちの住まう空間を、金銭価値だけに置き換えるだけでは寂しすぎる。そこに住まう、人と人の心が紡がれるとき、決して金銭では量ることのできないマンションライフの新たな付加価値もまた、「創造」されることだろう。
佳作
ゴミ屋敷を見捨てない
花房 伸也 様 / 神奈川県平塚市
築30数年のあるマンションの一室にゴミ屋敷が存在します。 私は管理会社の社員でありそのマンションの担当者になりました。 この30年近くの間、ずっとこの一室の臭いや害虫などに悩まされてきたそうです。周辺の住民からは苦情が出ていました。 私は担当者として、ゴミ屋敷への対策を考えました。資産価値を損なわないためにも法的手段に出て、退去してもらうことこそがこのマンションのためになるものだと信じていました。ほとんどの理事会役員はその考えに賛同していました。 しかし、理事長の考えは違っていました。
理事長は何度も何度もゴミ屋敷の住人Aさんに連絡を取ろうと試みました。話し合おうとしました。理事会へ招待しようとしました。何度も何度も無視をされました。それでもあきらめることなく必死にお手紙を書いたり、あらゆる手段で何とか目と目を向き合い話し合おうとしました。 そんなある日、Aさんから連絡がありました。理事長は一緒にゴミを片付けようと申し出ました。Aさんは応じませんでした。理事長はまるで自分のことのようにゴミを片付けるためにいろんな業者へ確認したりしてAさんに片付けプランを提案しました。Aさんは渋々理事長のプランを受け入れました。そのプランとは理事長をはじめ複数名の組合員の有志を募り皆の手で片付けを行い業者にゴミを回収してもらうというものでした。すべて片付けることはできませんでしたが、大きな一歩となりました。
理事長の連絡にAさんは答えるようになりました。部屋の窓からは空が見え、陽の光が差し込んでくることが嬉しいとAさんは言っていました。理事会へ参加するようになりました。なぜ今のような境遇になったのかAさんは全て話してくれました。家族の話や自分の幼少時代の話などいろいろと話してくれました。皆に迷惑がかかっていることも気づかないほどの状況に陥っていたことも知りました。初めてAさんの笑顔を見ました。何より、Aさんはこのマンションが好きであることが良くわかりました。 昨年はAさんが専門業者を手配し大規模な清掃を行いました。今年は部屋をリフォームする予定です。
理事長は最初からゴミ屋敷の住人などと思っていなかったようです。長年一つ屋根の下に住んできた共同住宅の大切な大切な仲間だったのです。ですから追い出すなどという考えは無く、皆で仲間を助けようとしたのです。 マンションは人と人とのつながりによって一つの大きな家族のような存在になったときこそ他と比べようのない資産価値が生まれるものなのかもしれないと私は感じました。 ゴミ屋敷を見捨てなかったこのマンションは、絆という資産価値が間違いなく生まれました。
佳作
火事が繋いだ人の絆
板橋 浩二 様 / 埼玉県川口市
私はマンション管理会社のフロント担当者として、日々管理業務に当たっています。 ある日、担当しているマンションの一室から大きな火事が発生してしまいました。 居住者は40代の男性の方で、お部屋の中の荷物に寝たばこで引火、室内は全焼、外壁の一部が焼けてしまいました。テレビで紹介されるような大きな火事です。 運よくけが人は出ませんでしたが、消火の水で5階建てのマンションの階下13室に漏水、お部屋の中が水浸しになった皆さんは大惨事でした。
土曜日のことで、業者が手配しにくい曜日で途方に暮れていたところ、支店長や先輩、同僚たちが次々と駆けつけてくれて、対応を手伝ってくれました。馴染みの設備業者もすぐに人を集めて、駆けつけてくれました。気づけば理事長を含め10数人の混成チームが出来上がりました。
チームとしてまず、各室の被害状況を消防署や警察とともに聞き取りし、二次災害が発生しないよう、濡れたブレーカーの漏電調査、電気の仮復旧から手を付けました。 水浸しでお部屋に住めなくなった方には、区の協力を得て避難先のホテルを紹介しました。 事件後帰宅された方への説明、火事で焼けた個所の工事案の策定、住民への張り紙、、数え上げるときりがない作業をしていたら、いつの間にか夜になっていました。 住民の皆さん・地域の皆さん・消防署・警察署の協力、会社の同僚たち、設備業者の皆さんの協力を得て、その日の夜には何とか復旧への道筋をつけることができました。
別れ際に、理事長からかけて頂いた「本当に、御社に管理を任せていてよかった。ありがとう。」という言葉が忘れられません。 二度と起きてはならない悲惨な事件でしたが、転じて自分の努力や能力を発揮できる機会となりました。また、会社の皆が自分の仕事を投げ打って駆け付けてくれたことにも感激しました。
日頃の管理業務はとても大切なことですが、こういう危急の時に、どれだけ早く落ち着いた対応ができるか、がとても重要であることがわかりました。 今後はこの経験を活かし、もしも他のマンションで同様の事件が起きたら、すぐに駆けつけられる人になりたいと思います。
佳作
人生の証 絆
長井 秀紀 様 / 埼玉県川越市
「課長すみません・・・。明日Nマンションに同行してもらえませんか・・・」 1月のある日曜日の夜、突然携帯電話に部下からの連絡が入った。「実はさっきまで修繕委員会だったのですが、問題が発生してしまって・・・・」 Nマンションでは9月から排水管更新工事を行っていた。排水管の更新工事は外壁等の改修と違って専有部分内に入室しての工事が必要で、水周りの床と天井の解体と復旧、排水制限等、居住者への制限も多く、全居住者の理解と協力が何よりも必須となる。人によっては工事の必要性は理解していても業者に入室されることに抵抗感があり、説得方法を誤るとたちまち協力を得られず工事が中断することもままあるのである。
今回の工事においては居住者も協力的であったが何より修繕委員会の尽力が大きく、中でも山村さんの貢献が工事の成功の全てであった。山村さんはNマンションの精神的支柱であり「父親」であった。病人がいれば病院へ車で連れて行き、高齢の方のために食材を買い出しに行ってあげたり、震災の時、一人暮らしの方達に自宅を開放したりした。気難しい方でも山村さんの言うことだけは聞くのである。そんな山村さんがいたからこそ全ての居住者が快く業者の入室に応じ、排水制限に応じ、工事中の騒音にも文句ひとつ言わず協力したのである。 山村さんは工事業者に対してもまさに「神対応」であった。気持ち良く工事をして頂くため、工事中の差し入れはもちろん、一緒に夕食を共にし、時には一緒にゴルフや釣りに行ったりしたのであった。全て自費である。業者もマンションの為に親身になって工事を行った。工事担当者は公私ともに山村さんと付き合い、そして全力で工事に協力したのである。私たち管理会社に対しても山村さんは同様に真摯に接して頂き、担当者の広川は担当してきた数年間家族の様に扱って頂いていたのである。しかし上司の私はこれらすべてを全く知らなかったのである。部下のからの電話があるまでは・・・。
今回の排水管工事は共用部分だけでなく専有部分の横引き管も更新する内容であった。そのため費用は高額となったため管理組合の手持ち資金だけでは賄えなかった。そこで住宅金融支援機構から借入することとなっていたのだが・・・。 工事は予定通り12月初旬で竣工した。山村さん以下修繕委員のお陰でトラブルは全くなかった。長年の懸案であった排水管からの漏水事故もこれで解消され、安心して皆が住むことができる。工事代金も着手金の支払は既に済んでおり、後は支援機構から実行される借入金が着金となった後速やかに竣工金を支払えばすべて完了だ。支援機構は工事完了届とマンション管理センターへの保証金受領報告を受けた後、融資実行予約が発行される。その後金融機関と金銭消費貸借契約を交わした後、融資実行される流れである。工事完了後概ね2~3か月後に実行されることとなるので、工事業者とは2月末に最終金を支払う約条としていたのだ。工事完了後速やかに工事完了報告書を提出していれば自動的に資金交付はされるのだが・・・。そう速やかに提出していれば。
部下からの電話の翌日、私は部下とともにNマンションに伺った。工事完了報告書を支援機構に提出していなかったことをお詫びするために。そして融資実行は早くても4月末になってしまうことを報告するために。 私達は修繕委員の皆様からの叱責を浴びた。必要な手続きを執っていなかったのだから当然ではあるが、なぜ行っていなかったのかがポイントとなった。大変恥ずかしい話であるが「失念していた」のである。住宅金融支援機構の資金交付までは必要書類も多く、初めての時は戸惑うものである。私は部下のフォローを全くしていなかった。山村さんはしばらく瞑想した後おっしゃった。「まずは工事業者に一緒にお詫びに行こう。全てを君達に任せきりにし何も確認しなかった私も悪い。」と。山村さんのこの発言の後、他の修繕委員の方々からの発言は一切無くなった。
翌日、山村さんと私の二人で工事業者に行った。先方は工事担当者と取締役の方で迎えて頂いた。「山村さんに頭を下げられては困ります。工事中はこちらこそお世話になったのですから・・・。でも山村さん、3月は当社の決算なのでそれ以上は待てないのです。山村さんの要望には全面的に協力したいのですが、3月末を越えることは・・・・。」 私は山村さんに言った。「融資実行までの期間、当社で資金を立て替えさせてください。」。山村さんは工事業者との面談の後、「自分の預金で立て替えようか・・」とか「いくつかの知り合いに回って金策しようか・・」と本気で考え出してしまったので、思わずこう言ってしまった。「そんなことはしちゃいかん。むしろ乱暴な発想じゃ。」と山村さんは私を嗜めるように言って下さったがもちろん本気ではない。私は「とにかく会社に当たらせて下さい。私にも何かさせてください。」と申し出た。
会社は管理組合に対し工事残金の全額を立て替えることを了承した。当然と思う方も多いと思うが、組織がこのような決断を下すには結構大変なものなのである。後で知ったことだが取締役会でも大いにもめたとのこと。私はまだまだ若輩で会社の上層部の微妙なやり取りはまだよくわからないが山村さんは全てわかっていたようだ。私の立場まで考えて頂いていた事を知って本当に感激しそして心より尊敬した。
その後、今日まで山村さんとのお付き合いは続いている。公私ともども私の人生の師である。山村さんの生い立ちから今日までに起きた多くの出来事、様々な過酷な経験をされたことを、私は全て知っている。逆に私の家庭内での悩み、事故等、今まで誰にも言えなかったことを山村さんには全て話した。何度も一緒に泣いて頂いた。
私は管理会社の社員である。ややもすると日々の業務に忙殺され、マンションの管理に対して漫然と対峙してしまうこともあることは否めない。しかし山村さんと出会って変わった。マンションの管理とは皆様の「いのち」「人生」に寄り添うことであると悟った。この仕事は私の人生の証である。そしてかけがえのない方に引き合わせてくれた大事な絆である。 ※ 山村さんは仮名です。
佳作
世代を超えたお隣さんとの温かい女子会
小村 あゆみ 様 / 大阪府高槻市
このマンションに引越してきて半年後、娘を授かることができた。嬉しさと同時に初めての出産に対し不安だらけだったが、私の心配とはうらはらに娘はすくすく元気に育ってくれた。
予定日より二週間前の夜、突然陣痛が始まり、まさかの自宅出産!家には主人と二人だけ、そして出産設備など全く整っていない悪条件の中、出産の感動よりも不安に押しつぶされそうになっていたが、娘は一生懸命生きてくれた。
その後入院したものの無事退院し、隣人であるおばあさんに会えた際に、娘が産まれたことを伝えた。そのことをマンションライフで仲良くなったというおばあさんの友人に伝えてくれたようで、後日二人で娘の顔を見に家まで来て下さった。
さらに何度か会ううちに一人のおばあさんが三人の都合のいい日を娘と遊べる日にしたいということで、わざわざ「娘と遊べる日」という表まで作成し、全員の都合を調整して下さった。それから四人の女子会が始まった。 おばあさん達は二人とも八十代後半だが、とてもパワフルである。また、女子会の度に娘を優しい眼差しで抱っこして下さる。娘の笑顔はもちろん、泣いた時でも二人そろって大笑いするのだ。私は、娘の泣き声を聞かせるのは申し訳ない、早く泣き止まさないと、と思っていただけに泣いた時でも大笑いしている二人の温かい笑い声がとても新鮮だった。
そして、二人の笑顔に私自身とても癒され、日々の育児の疲れが一気にとんでいった。また、育児に対して不安や行き詰まったことを話した時、一人のおばあさんから「お母さんはどーんとかまえとかないとね。」と喝をいれられた。私は少し、共感してもらいたいという思いもあったが、その一言はまるで「大丈夫!」と 後押しされているような気がし、励まされパワーをいただいた。
ある日、女子会の場所であるおばあさんの家に行くと、ソファーに以前にはなかったカバーがかけられていた。娘がソファーを汚さないよう購入されたのかと思い、迷惑を心で詫びながらカバーについて尋ねてみると、これから先、娘がつかまり立ちや伝え歩きを始めた時に使い古しのソファーを娘が触るのはかわいそうだという思いから手作りの着物を裁断してカバーを作ったということだった。おばあさん自身のためではなく、娘のために作ったということを知り、私には思いも付かなかったアイデアと優しさで心が温まった瞬間だった。娘は人見知りが始まり、二人の顔を見ただけで泣くこともあったが、時間を重ねるごとに二人をしっかり認識できるようになり、最近は安心しきった表情で抱っこされている。
近所とのつながりが希薄になり、お年寄りとの接触が少なくなる現代、このマンションでは、住人と出会う度に挨拶が飛び交い気持ちがとても良い。そして、近所の方々に恵まれた私と娘は幸せ者だ。最近は、女子会にマンション内での友人親子も増え、輪が広がった。今後もベビーパワーをおばあさん達に分け続けたい。そして何よりも、私自身、週一回娘の成長を見てもらうのが大変楽しみであり、またおばあさん達の笑顔を見ると元気がもらえる。近所付き合いの架け橋になってくれた娘と二人の女子会に呼んで下さった元気なおばあさん達に心から感謝している。
氏名 | 役職 | |
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委員長 | 齊藤 広子 | 横浜市立大学国際総合科学部 教授 |
委員 | 篠原 みち子 | 弁護士(篠原法律事務所) |
委員 | 中城 康彦 | 明海大学不動産学部 学部長 |
委員 | 宮城 秋治 | 一級建築士(宮城設計一級建築士事務所) |
委員 | 元木 周二 | 住宅金融支援機構 まちづくり推進部長 |
委員 | 鈴木 克彦 | 一般社団法人日本マンション学会 副会長 |
委員 | 川上 湛永 | 特定非営利活動法人全国マンション管理組合連合会 会長 |
委員 | 親泊 哲 | 一般社団法人日本マンション管理士会連合会 会長 |
委員 | 三橋 博巳 | 一般社団法人マンションライフ継続支援協会 理事長 |
委員 | 廣田 信子 | マンションコミュニティ研究会 代表 |
委員 | 山根 弘美 | 一般社団法人マンション管理業協会 理事長 |
(敬称略)