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- 2012年冬号
昭和37年に「建物の区分所有等に関する法律」(区分所有法)が制定され、分譲マンションが資産として認められるようになり、その後、昭和39年に開催された東京オリンピックを契機に、民間の分譲マンションの建設ラッシュが始まりました。今回は第一次マンションブームに建設されたマンション「コープオリンピア」をご紹介いたします。
◆第1次マンションブーム
日本住宅公団は1955(昭和30 )年設立当初から、短期間で大量の住宅を供給するため設計の標準化、規格部品の開発など在来建設方式の枠内での合理化を目指した。生産形態を根本的に変え、反復生産に適した形を追求、躯体の工業化に取り組んだ。そこでRC造の壁式やラーメン構造のほかに鉄骨造、PC工法(プレキャスト工法)の先駆けとなるTilt-up(ティルトアップ)工法など躯体工法の模索が行われた。その後、1957(昭和32)年に低層集合住宅の試作を行い多摩平団地、高根台団地など約1600戸を建設し、1962(昭和37)年からは中層集合住宅の建設を開始。高度成長期における住宅の大量供給を支えた。その頃民間では、区分所有法が制定され分譲マンションが資産価値を持つようになり、マンションの建設が大量に行われた。
そして1964年(昭和39)開催の東京オリンピックを契機に、景気の上昇、区分所有法制定による条件整備などが重なり、第1次マンションブームが起こった。
◆高級ホテルとアパートを合体「コープオリンピア」
1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックは原宿近くの代々木公園が会場となり、周辺地域はオリンピック景気に沸いた。翌年の1965( 昭和40)年、表参道沿いに建設された「コープオリンピア」はオリンピック開催にちなんでオリンピアと名付けられた。
コープオリンピアは、当時販売した東京コープ(株)の宮田慶三郎氏が、アメリカのマンションを視察後、高級ホテルのようなアパート「アパーテル」を目指し、施設入口には居住者用のフロントを配置、部屋には洋式バスを設置し、キッチンには生ゴミを切り刻むディスポーザーを取り付け、すべての部屋に冷暖房を完備。部屋の間取りや生活様式もアメリカンスタイルを目指した。また広い居住スペースを確保するため、ベランダと洗濯機置き場は作らず、地下1階に洗濯業者が24時間常駐している洗濯室を設けた。生活スタイルの変化もあり、現在では居住者が自由に利用できるよう洗濯機、乾燥機が置かれている。
当時マンションの販売価格はサラリーマン年間所得の10倍に達し、分譲マンションは高級な時代であった。昭和38~39年、原宿近辺の戸建住宅の価格が約800万円に対し、「コープオリンピア」は広さ約29・75平方メートルの住居で約600万円(昭和40年代当時)。約214平方メートルの住居で約8000万円(昭和40年代当時)で一般の戸建住宅よりも10倍近い価格だった。地下1階、地上8階建て、総戸数166戸の物件で、メゾネットタイプも含め、住戸は11タイプあるそうだ。
また分譲当時の管理に関しては、マンション居住者の自治会への意識が低く、販売会社がマンション管理を行っていた。その後、販売会社と居住者間で管理システムの考えに相違が起こり、1966年11月に第1回の区分所有者集会が開かれた後、マンション居住者による自主管理組合が立ち上がった。長年にわたり、丁寧で細やかなメンテナンスを重ねた結果、2000(平成12)年には、公益財団法人ロングライフビル推進協会が優秀な建築物を表彰するロングライフ部門「BELCA賞」(※)を受賞した。
コープオリンピアを含めた高級分譲マンションと同時期に、大衆派路線の分譲マンション建設も進み、1968(昭和43)年頃から第2次マンションブームが巻き起こる。